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[コラム]世界の中心でサケを咥えたけもの

投稿者投稿内容
山中 正
ベテラン
会議室デビュー日: 2001/07/30
投稿数: 73
お住まい・勤務地: 大阪府
投稿日時: 2003-05-22 15:05
山中です。今日配信された"編集局:中澤勇"さんのコラム。面白かったです。

タイトルを読んだ時、私はてっきり釣りが趣味な(?)ある方が鮭を抱えて微笑んでいる姿を想像してしまったのですが 、以外や以外、全然違う話でした。

最新のIT情報はもちろんですが、こういう出来の良いコラムも楽しみにしています。
@IT中澤
@ITエディタ
会議室デビュー日: 2001/07/27
投稿数: 96
お住まい・勤務地: 西新宿←→丸の内
投稿日時: 2003-05-22 19:39
山中さん、こんにちは。

過分なお褒めの言葉、恐縮です。楽しんでいただけたようで、安心しました。
ITまみれなのはイヤなので、コラム書きが回ってきたときは極力「ハズす」
ことを目標にしています。

# 前回のコラムも、「@IT的ではない」内容で受けていたような……。

いつかまたコラムの番がまわってきたら、また褒めていただけるように
がんばります(笑)。
りょー
会議室デビュー日: 2003/05/22
投稿数: 5
投稿日時: 2003-05-22 22:46
はじめまして。僕も楽しませてもらいました。
僕の実家にも木彫りの熊があります。

まさかあの話題から「ITっぽい話題に」つながるとは思いませんでした。
ところで22代目のWebサイトってどこなんでしょうか?もしよろしければ教えてください。
でも婿養子ということは家康の血は引いていないのですね。残念。
というか徳川家ってまだ続いていたのか・・・
@IT中澤
@ITエディタ
会議室デビュー日: 2001/07/27
投稿数: 96
お住まい・勤務地: 西新宿←→丸の内
投稿日時: 2003-05-23 13:13
りょーさん、はじめまして。

こ、ここにも熊が……(笑)。

22代目のサイトは、
http://www.tokugawa.org/~toku/
です。出すべきかちょっと悩みましたが、ググれば簡単にでてきちゃうので、
ここでリンクしても問題ないでしょう。

> というか徳川家ってまだ続いていたのか・・・

もちろん、続いてますよ。「徳川」姓を名乗る主な家系だけでも、
宗家(将軍家)、御三家、御三卿の7家。

御三卿(田安、一橋、清水それぞれ伯爵)はあまり詳しく知らないのですが、
御三家(尾張、紀伊が侯爵、水戸が侯爵のち公爵)には分家(子爵および男爵家)
もあります。

ややこしい宗家(公爵)からは、宗家分家(男爵)、別家慶喜家(公爵)、
別家慶喜家分家(男爵)といった家系が生じています。将軍家や御三家などから
生じた松平氏まで入れると、えらい数になります。

宗家18代当主徳川恒孝(つねなり)氏は、今年が江戸開府400周年ということで
ときどきTVにも出演されてますね。2001年の愛子内親王誕生時には、加賀前田宗家
18代当主前田利祐氏とともに、鳴弦役(弓の弦をビョ〜ンビョ〜ンと鳴らす魔除け)
を務めてましたが(鳴弦役はもともと大名がやる)。

> でも婿養子ということは家康の血は引いていないのですね。

ほかの家系と同様、尾張家は何度も断絶してますしね。虎狩りの殿様 義親も養子で、
実父は越前福井藩主 松平慶永(春嶽)ですし。とはいえ、20代までの当主は一応
男系で家康の子孫ですね。現当主の奥さんは尾張家20代の娘なので、22代目は女系では
家康の血を引いていることになります。

現当主の実父は堀田正恒氏で、旧下総佐倉藩主家の出身。
佐倉藩の堀田氏といえば子爵で、侯爵の尾張家とは旧華族同士。また、堀田氏は
紀氏なので、清和源氏の徳川とは、(血統はともかく)天皇の子孫の家柄という
ことになりますなぁ。どうでもいいけど。
りょー
会議室デビュー日: 2003/05/22
投稿数: 5
投稿日時: 2003-05-24 22:17
中澤さんお答えありがとうございます。また詳しいお話感服しましました。

>佐倉藩の堀田氏といえば子爵で、侯爵の尾張家とは旧華族同士。また、堀田氏は
>紀氏なので、清和源氏の徳川とは、(血統はともかく)天皇の子孫の家柄という
>ことになりますなぁ。どうでもいいけど。

紀氏とは紀貫之の紀でしょうか?紀氏が堀田氏に改姓したということですか?
そういえば以前から疑問に思っていたのですが何故わざわざ改姓するのでしょうね?
よく武田は源氏とかいいますが源氏であることがそれほど、重要であるのであれば源氏のままのほうがよさそうに思ってしまいます。それとも重要ではないのでしょうか?
@IT中澤
@ITエディタ
会議室デビュー日: 2001/07/27
投稿数: 96
お住まい・勤務地: 西新宿←→丸の内
投稿日時: 2003-05-25 18:36
> そういえば以前から疑問に思っていたのですが何故わざわざ改姓するのでしょうね?

「源→武田」という文脈でいえば、「改姓していない」が答えです。
源は氏(ウジ)、武田は名字(苗字)で、レイアが異なるのです。

ウジは先祖を同じくする血縁集団で、古代史に登場する物部、蘇我、
藤原、源、菅原、紀などは、すべてウジのことです。

公家と武士では微妙に異なりますが、名字は平安末期ごろから使われる
ようになります。
平安時代になると、主要な公家はほとんど藤原氏になってしまい、しかも
名前(正確には諱イミナ)を呼ぶことは非礼とされたため、個人の呼び分けが
難しくなります(「道長様」と呼んではいけないが、「藤原様」と呼ぶと
みんなが振り返る)。そこで、居住地や地位による「称号」が使われるように
なります。御堂関白、堀河宰相、小一条殿などなど。さらに称号が父から子へと
継承されるようになり、家名として定着します。

武士の場合は所領を称することで、支配権を主張したようです。
分割相続によって、兄弟が異なる名字を称することも多くありました。
典型例が源義国の子たちで、義康は足利荘を継いで足利氏に、義重は新田荘を
継いで新田氏となります。

名字の発生以後も、ウジは重要な意味を持ち続けます。朝廷に対する公式な
効力を持つのはウジなので(名字は自称にすぎない)、例えばおととしの
大河ドラマの北条時宗も、朝廷に対しては「平朝臣時宗」と署名します。
つまり、武田も公式には源朝臣姓を使い、同時に武田という名字も称していた
というわけです。ただし、明治時代の平民苗字許可、戸籍法、苗字必称義務令
により苗字(名字)が公式の家名となり、ウジは制度上は消滅します。

ウジと名字は紛らわしいことこの上ないのですが、読みが分かればある程度
区別がつきます。ウジの場合、「の」を入れるのが慣例になっているのです。
藤原道長「ふじわら(の)みちなが」、源頼朝「みなもと(の)よりとも」、
菅原道真「すがわら(の)みちざね」

一方の名字は現代人と同じ読み方です。
織田信長「おだのぶなが」、近衛前久「このえさきひさ」、西園寺公望
「さいおんじきんもち」

多少の例外もあります。豊臣秀吉の「豊臣」は名字ではなく朝廷から賜った
ウジなので、本来なら「とよとみ(の)ひでよし」と読むのですが、
「とよとみひでよし」と読んでしまいますね。

> 紀氏とは紀貫之の紀でしょうか?

そうです。堀田氏が貫之の子孫かどうかは調べていませんが(笑)。
以上で答えになりましたでしょうか?

# われながら大雑把な説明だな……。
りょー
会議室デビュー日: 2003/05/22
投稿数: 5
投稿日時: 2003-05-28 00:29
またしても詳しいお話ありがとうございます。長年の疑問が説けた様に思います
しかしさらに疑問が出てきました。現代でも藤原という人がいますがこの人は藤原ウジとはどういう関係になるのでしょうか?
それから中澤さんのお話を拝見しておりますと名字と苗字が出てきますがこれは、どちらが正しいのでしょうか?

また

>なります。御堂関白、堀河宰相、小一条殿などなど。さらに称号が父から子へと
>継承されるようになり、家名として定着します。

とありますが継承されるようになるとということはされないことも、あるということですか?その場合はどうなるのでしょうか?

@ITとは関係のない話題で大変申し訳ないのではありますがよろしければ教えてください。
@IT中澤
@ITエディタ
会議室デビュー日: 2001/07/27
投稿数: 96
お住まい・勤務地: 西新宿←→丸の内
投稿日時: 2003-05-29 00:16
まぁ、クラブCafeは「四方山話のコーナー」となってますので、気にされる必要は
ないと思いますよ。ただ、日本史は専門ではないので、あまり突っ込まれると
答えられなくなりそうです(笑)。私は西洋史が専門ですので。

> とありますが継承されるようになるとということはされないことも、あるということですか?

単に時間経過的な問題です。前回説明したように、個人を識別するために称号
が生じます。藤原北家嫡流を例に挙げると、

(小一条)忠平→(九条)師輔→(東三条)兼家→(御堂)道長→(宇治)頼通

のように、父および嫡男でも称号はバラバラです。称号が現れるのは西暦7、800年
ごろ、そして称号(家名)の継承が見られるようになるのが1100年代後半(藤原氏
嫡流近衛家の場合)。ざっと3、400年の時間をかけて、称号から名字へと変化して
いったというわけです。

なぜ変化したのかを先回りして説明すると、さまざまな要因があるようです。
1つが婚姻形態の変化。一説によると、称号→名字の時期は、通い婚(夫が妻の
実家に通う形式)から嫁取り婚(妻が夫の家に入る形式)に変化した時期と一致
するといいます。

通い婚では、生まれた子供は妻の家で養育されます。そして、
称号が住まいの場所に関係することから、生まれた子は妻の家(外祖父の家)の
場所で呼ばれるわけです。九条某が一条某の娘と結婚すると、子の称号は一条に
なってしまうのです。これが父と子で称号が異なる理由です。

嫁取り婚になると、子は父の家で養育されるため、称号も父と同じになる。つまり
称号の継承が行われるというわけです。

一方で、この時期は摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家など、家格(文字通り、
家のランク)の形成が始まります。摂家は摂政や関白になれる家で、近衛、九条、
鷹司、一条、二条の5家(五摂家)。清華家は太政大臣(近衛大将兼任)まで
なれる家で、藤原氏の三条、西園寺、徳大寺、村上源氏の久我など9家。大臣家
は左右大臣まで、羽林家は大納言まで……と、家格によって出世できる上限が
決まってしまいます。故に家格は重要で、これが個人ではなく家同士の区別を
重視する傾向を生み、名字に象徴される「家」意識を強化したともいえるでしょう。

で、最初のご質問に戻りましょう。上記のとおり、藤原氏をはじめとするウジ
たちは、長い時間をかけて名字を形成し、さらにそれを何百年も使い続けて
きました。明治時代になり平民も苗字を許されるころには、みな「藤原」では
ない名字を持っていたわけです。

ウジをそのまま名字にした例もあるので絶対とはいえませんが、藤原という名字
は藤原朝臣姓とは無関係と考えた方がいいでしょう。藤原氏には、藤原という
名字を名乗る理由がまったくないからです。繰り返しになりますが、ウジと名字
はまったく別の概念です。

最後に名字と苗字について。正しい正しくないは、正しさの基準によって変わり
ます。現代では「名字」で統一されているので、基本的にはこの字を使うべき
でしょう。ただし、江戸・明治時代は「苗字」が使われました。明治時代に出された
法令も「苗字」の字を使っているので、苗字必称令を「名字」とするのは誤りです。

さらにさかのぼると、そもそも名字と苗字は由来が異なり、意味も違ったのです。
つまり、一緒くたにしてどちらかに統一してしまうことが間違いといえます。

まぁ、現代ではどちらも本来の意味は完全に失われています。単に家名を示す
概念として、現代人については「名字」、でよろしいのではないでしょうか。

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