心をわずらった人への正しい対応方法は?読めば分かるコンプライアンス(17)(1/5 ページ)

本連載では、あるコンサルタント企業を舞台にして、企業活動とは切っても切れない“コンプライアンス”に関するトピックを、小説の随所にちりばめて解説していく。

» 2009年04月07日 12時00分 公開
[鈴木 瑞穂,@IT]

突然やってきた“灰色のガス”

今回の主な登場人物

堺 俊明

グランドブレーカー シニアコンサルタント



岡本 聡

グランドブレーカー 人事課長


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 短期休職1日目。1月下旬の月曜日の午前11時。

 グランドブレーカーの堺俊明は、自宅近くの喫茶店でぼんやりと座っていた。10時の開店時に入店してからすでに1時間。注文したコーヒーはすっかり冷め切っていた。

 上司の大塚マネージャには、先週の金曜日に「とにかく来週は、月曜日から3日間休みをとって体調を治してから出社せよ」といい渡された。

 土曜日と日曜日は自宅マンションを出ることなく、普段の週末のように寝たり起きたりで時間をつぶすことができたが、習慣とは恐ろしいもので、月曜日の今日は午前7時に目が覚めて、とにかく自宅を出なければいけないという気分になった。しかし、自宅を出たものの、上司の命令があるので会社に行くわけにはいかず、仕方なく、いつもは足早にとおり過ぎるだけの喫茶店に入ってみたのである。

ALT 堺 俊明

 しかし、入ってみたはいいものの、何もすることがない。何もする気がしない。堺は、いつものように“灰色のガス”が自分の体内に満ちていくのを感じた。

 堺がこの灰色のガスを感じるようになったのは、2カ月ほど前のことだった。灰色のガスが現れるきっかけはその時々で違っていたが、灰色のガスはいつも目と耳と口から自分の中に入り込んでくる。

 そうなると、目に見える光景も耳に聞こえる人の言葉もすべてが意味を失い、すべての出来事に対する関心がなくなり、「そんなのどうだっていいじゃん」のひと言が意識を支配し、思考機能が停止してしまうのだ。

 手持ち無沙汰でふかしていたタバコの煙を眺めながら、堺は2カ月前のことを思い出した。

 「(あの日、地下鉄の窓に映っていたのは俺だったんだろうか。いや、どうも別人だったような気がする。あいつの顔を見てから、なんだか調子が狂ったんだよなぁ)」

クライアントへの反感から、調子がおかしくなっていった

 昨年11月のある日の朝、堺は通勤の地下鉄で、何の前触れもなく奇妙な気分に襲われた。

 地下鉄の窓には、毎朝洗面台の鏡で見慣れている自分の顔が映っていたが、そのときの堺には、なぜだか急に自分の顔が見知らぬ男に見えてきたのである。

 「(こいつは誰だ? なぜこの電車に乗ってるんだ? あれ、これは俺なのか? 俺はなぜここにいるんだ? いや、俺のように見えるけどこれは俺じゃない……。お前は誰だ?)」

 堺は自分の体内が灰色のガスで満たされたような感じになり、思考能力の歯車がロックされたように、何も考える気がしなくなった。

 これが堺と“灰色のガス”の出会いだった。

 ただし、灰色のガスの威力は最初のうちはそれほど強くはなかった。

 というのも、昨年の9月、堺は運送業界のクライアントの経理システム構築のジョブで、上司の大塚マネージャの監督の下で初めてのプロジェクトマネージャに任命されており、昨年11月ごろは3人の部下(SE)とともに、まさに山場を迎えていたのだ。

 9月からの約2カ月間、堺は大塚マネージャとともにクライアントの発注責任者である経理課長と打ち合わせを重ね、システムの詳細設計を固めていた。

 11月からはその詳細設計をプログラム仕様書に落とし込んで、さらにプログラミングに落とし込み、その要所、要所でクライアントの確認を取って、「操作マニュアルおよびメンテナンス手引き書の基礎となる詳細な文書を作成する」という複数の作業を、同時並行で進めていた時期だった。

 このように常に緊張した状態が続いていたため、地下鉄の窓に映る自分の姿を見知らぬ男と感じた奇妙な気分も、最寄り駅で下車して会社に向かって歩いているうちに、いつの間にか薄らいでいた。

 しかし、灰色のガスの影響がまったくなかったわけではなかった。1度灰色のガスの毒素に染まった堺の思考回路は、堺自身が気が付かないうちに少しずつ変調をきたしていた。

 プロジェクトもこの段階にくると、クライアントのいうことが二転三転することがある。

 システムの動作や画面設計、プリントアウトの状態などを具体的にイメージされるようになってくると、クライアントは「いや、そこはそうじゃなくて、もっとこんな感じにしてくれよ」といい出すのである。

 「先日の打ち合わせではこうおっしゃってましたが……」と指摘しても、「いや、先日の打ち合わせでもこんな感じだということを伝えておいたじゃないか。だめだよ、ちゃんと理解してくれないと!」とくる。クライアントにしてみれば「仕様の明確化」なのだが、グランドブレーカーにしてみれば「仕様変更」以外の何者でもないのだ。

 「仕様変更」となると追加の人手もコストも膨大になり、スケジュールも変更を余儀なくされる。従って、多くの場合ではクライアントと報酬額の再交渉が必要になる。だから、プロジェクトマネージャはクライアントからの要請があったら、常にそれが「仕様変更」になるかどうかを迅速かつ正確に判断し、上司や部下に適切な指示を出さねばならない。

 今回のクライアントの経理課長も、数日前から矢継ぎ早に「仕様の明確化」を求めてきていた。

 堺としては、それが本当に「仕様の明確化」なのか、それとも「仕様変更」となるのかの迅速な判断が求められていた時期だった。つまり、堺にとっては毎日がプレッシャーの連続だ。ところが、通勤電車の窓に映る自分の姿が見知らぬ男に見えた日から、堺のパフォーマンスは徐々におかしくなり始めた。

 堺が最初に感じたのは、クライアントの経理課長に対する反感だった。

 ものをいうときは、いつも「上から目線」。間違っているのは常に相手で、自分はいつも正しい。そんな経理課長に対する反感は日増しに強くなっていった。システムコンサルティングに携わっていれば、いや、おしなべて仕事をしていれば、このような人物には必ず出会うものである。

 反感を持つのは自然な反応だとしても、普通の心理状態の人であれば、「そういう人間もいる、これは仕事なんだから」と割り切って、何とか物事を先に進めるものである。

 ところが、堺にはその割り切りができなかったである。

 経理課長のごり押しに振り回されているうちに、彼に対する反感は「なぜ俺はあいつにここまでいわれなきゃいけないんだ?」という疑問に変わり、「あいつのいうとおりのシステムを作ることにどんな意味がある? 俺は何のために自分の時間を費やし、能力と精神をすり減らしている? 俺はいったいここで何をしている?」という反問となって、堺自身の意識内で葛藤が起きていた。

 そして、段々と堺は仕事に対する意欲を失い、責任感が薄くなっていった。その代わりに虚無感が心の中にはびこり、生きることの意味と目的が見えなくなり、人生そのものが無意味に思えてきたのだった。

 そうなると、当然仕事に対する緊張感や集中力は落ちてくる。

 ジョブの最も重要な時期に、堺は判断を要する案件を避けたり先伸ばしにしたり、部下に対する必要な指示を忘れたりするようになった。それを周囲から指摘されると、自責の念が自信喪失につながり、それがまた虚無感を強め、その結果さらにミスが増えるという、マイナスのスパイラルに陥ってしまったのだった。

休職2日目の朝

 短期休職2日目。

 堺は今朝も午前7時に目が覚めた。今朝も食欲はない。飲みかけのミネラルウォーターを流し込むと、すぐタバコに火をつけて深々と吸い込んだ。

 今日は取りあえず自宅を出なければ、という気分にもならない。寝癖のついたボサボサの頭、無精ひげが伸びた顔、着古したパジャマという格好で、テレビのスイッチを入れた。この時間帯は、どのチャンネルも似たり寄ったりのワイドショーを垂れ流している。堺は、50歳の派遣社員の「派遣切り」を伝えるキャスターの声を聞きながら、ぼんやりと考えをめぐらせていた。

 「(……50歳の派遣社員かぁ。それにしても、あの人はなぜ派遣社員になったんだろう? 定年退職後まだ働きたいからか? 勤めた会社と合わなくてスピンアウトか? 業務縮小による整理解雇? 仕事ができなくて辞めさせられたか? 役立たずだからか……。それともパフォーマンスが悪かったからか……)」

 パフォーマンスという言葉が、堺の脳裏に昨年の暮れの思い出したくもない出来事をよみがえらせた。

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