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あの日、三陸鉄道はどのように復旧に取り組んだか望月社長が語るBCP

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた三陸鉄道は、どのように運行再開に取り組んできたのだろうか。NTT勉強会で三陸鉄道代表取締役社長、望月正彦氏が語った当時の模様からは、BCPの本質をうかがうことができる。

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 「鉄道が廃止されて栄えた町はない」ーーそんな信念の元で、東日本大震災後、全線復旧に取り組んできた三陸鉄道。壊滅的な被害を受けた同社は、どのように運行再開に取り組んできたのだろうか。16年間続いてきたNTT勉強会で、三陸鉄道代表取締役社長、望月正彦氏が語った当時の模様は、企業におけるBCPの取り組みの好事例となるのではないか。2015年2月27日に行われた「三陸鉄道のBCPの取り組み」と題する講演の内容をレポートする。

災害対策本部は1両のディーゼルカー

 三陸鉄道は、岩手県の陸中海岸に総延長約100キロメートルの路線を持つ、第三セクター方式の鉄道会社だ。宮古〜久慈駅間の北リアス線と盛〜釜石駅間の南リアス線の2路線に分かれており、1984年の開業以来、学生やお年寄りらにとって欠かせない地域の足として親しまれてきた。同時に、「こたつ列車」などの企画を通じて観光ツアー客を呼び込み、地域の活性化にも貢献してきたという。

 あの日、震災が発生した瞬間、望月氏は宮古駅にいた。5分ほど続いた揺れが収まった後にまずやったのは、背広から作業着に着替えることだった。海から1キロメートル以上離れた駅からも津波がやってくるのが見えたため、乗客を避難所に誘導し、社員も陸橋上に避難したという。駅に再び戻ったのは18時前だった。

 「3月11日は小雪が舞う日で寒かった。しかも停電してしまったので、PCも電話もファンヒーターも使えず、何もできない。たまたま宮古駅始発のため止まっていたディーゼルカーがあった。燃料も入っている。『これ、いいじゃないか』と車両をそのまま災害対策本部にして、対応に当たった」(望月氏)。

 最初に取り組んだタスクは4つあった。まず、担当を分けて社内外との連絡体制を作ること。2つ目は運行中の車両や社員、乗客の安否確認だ。さらに、大きな被害が出ているのは確実なので、どの程度の被害があるのかの確認を進めた。そして「その時点から『復旧手順を検討しておけ』と指示した」(望月氏)。

 ディーゼルカー内の対策本部には、ホワイトボードと1冊のノートを用意し、災害優先携帯電話を使って収集した情報を次々そこに書き込んでいった。「ノートには分単位で、『○時○分、誰からどんな報告があった』『○時○分、誰にどんな指示を出した』といった事柄を記録した。重要な事柄はホワイトボードに書き出して共有した。情報が錯綜しがちだったので、これは役に立った」と同氏は振り返る。

トップが「復旧優先で行く」という方針を明確に示す

 東日本大震災によって三陸鉄道が被った被害は甚大だった。浸水を受けて3両の車両が廃車になった他、津内によって駅や橋りょう、築堤があちこちで破壊された。一方で、「高架橋や築堤が防波堤になり、背後の家屋や小学校を守った部分もあった。また、津波が引いた後、道路はがれきに埋まって歩けないので、線路の上が地域の人の移動路になった」(望月氏)。


三陸鉄道代表取締役社長の望月正彦氏

 望月氏は、大津波警報が津波警報に変わった3月13日から現地確認を進め、「復旧優先でいく」という方針を立てた。「路線を全部点検していたら3カ月はかかってしまう。優先順位を付け、動かせるところから動かしていくことを決めた」。もともと岩手県職員として地域振興に携わってきた同氏は、その観点から復旧の方針を譲らなかったそうだ。

 「こうした時にリーダーがやるのは、方針を示すこと、決断すること、そして責任を取ること」(望月氏)。安全面を懸念する運行本部長とやり合うこともあったが、最終的には運転再開の方向に舵を切り、翌14日には協力会社に連絡を取って点検を開始。運転再開に向けた準備を進めた。通信ケーブルが津波で寸断されていて信号が使えなかったり、踏切部分の安全確保をどう実現するかといった課題はあったが、そこは運行本部長に委ね、手旗信号や応援部隊の派遣で乗り切ることとした。

 一方望月氏が奔走したのは、宮古市や岩手県をはじめとする「外」との交渉だ。宮古市を通じて、自衛隊に自力では困難ながれき撤去作業を依頼したり、岩手県知事に「無料で運行するので運行再開を許可してほしい」と直談判。こうして全社で取り組んだ結果「震災4日後にはめどがついて、5日目、3月16日には久慈・陸中野田間での運転を再開した」(同氏)。3月中に北リアス線36.2キロメートルで運転を再開した。

全線復旧に向け、代わりの収入を模索

 その次に同社が掲げた目標は全線復旧だ。そのためには莫大な費用がかかる。ただ、元々三陸鉄道はある程度津波を想定し、高架橋やトンネルを多用する作りとなっていたこともあり、ある程度「行ける」という目算もあったそうだ。

 三陸鉄道では、沿線市町村と連名で県や国に全線復旧に向けた要望を提出する一方で、できるところから収入を得る努力も進めた。その一例が、被災地を視察する「被災地フロントライン研修」だ。三陸鉄道の社員が説明員となり、被災状況を自ら説明して回るという企画である。「この時、3つのルールを設けた。被災者にカメラを向けないこと。復旧作業の邪魔をしないこと。そして、できるだけたくさんお土産を買って帰っていただくこと」(望月氏)。他に、社員が手作りした「復興祈願レール」などを売り出し、落ち込んだ運賃収入に代わる収入の確保に取り組んだそうだ。


会場では、地域とコラボレーションした三鉄ブランド商品の一つ、「龍泉洞の水」も販売された

 最終的には国の支援が決まり、三陸鉄道では三段階に分けて復旧を進めることになった。クウェート国や日本赤十字社、日本ネスレをはじめとする民間企業など、多くの支援を受けながら工事を進め、2014年4月6日、ついに全線で運行を再開した。「沿線の皆さんの喜びようにこちらがびっくりするほどだった。『おめでとう』という声もあったが、それ以上に『お帰り』という声が多かった」と望月氏は振り返る。

 だが、これでめでたしめでたし、というわけにはいかない。過疎化による沿線人口の減少やモータリゼーションの進展といった震災以前からの課題に加えて、震災復興の遅れや高台移転によって、駅周辺の町づくりをどのように進めていくかという課題もある。

 望月氏は、観光を中心とした「交流人口」の拡大やコンパクトシティ化、地域特産品の販売といった取り組みを通じて、この重たい課題に取り組んでいこうとしている。テレビドラマ「あまちゃん」なども追い風にしつつ、経営面では「運転士がツアーガイド資格を取る」「保線作業員が電気通信関連の資格も持つ」といった具合に一人一人が複数の役割を果たせるようにし、一層の効率化に取り組んでいるそうだ。

 同氏は、鉄道というインフラの果たす役割に付いて次のように述べている。「鉄道が廃止されて栄えた町はない。将来を考えると、赤字だから運行をやめてしまうというのもいいでしょう。けれどそうすると町はあっという間に衰退する」。道路の維持管理費用や事故といった、車社会のコストやリスクも踏まえて、公共交通の在り方を考えるべきではないかという。

災害の種類や季節、時間によって対処策は異なる

 三陸鉄道ではこの経験を踏まえ、2013年4月に「災害時初動ガイドライン」を作成した。「日本にはいろいろな災害がやってくる。地震や津波だけでなく、土砂災害もあれば噴火もある。災害の種類や季節、時間によって、対処策はそれぞれ違ってくる。どういう風に対応したらいいか、どこに避難し何を持ち出すか、あらかじめ考えてほしいというのがその趣旨だ」(望月氏)。

 加えて、いざという時はまず家族や周りの人々の人命救助を優先することも明記した。不幸中の幸い、三陸鉄道の社員は全員無事だったが、少なからぬ数の社員が親戚や友人を震災でなくしてしまったという。震災のときもそうした人々にはまずそちらを優先するよう指示した望月氏。「非常用持ち出し袋を用意することも大事だが、その前に、非常時にどうするかを家族で話し合ってほしい」と、経験を踏まえて語る。

 もう一つ、当たり前といえば当たり前だが「報告されたことは記録する」ということも重要だそうだ。「人間の記憶ほど当てにならないものはない。『言ったっけ?』『聞いてない』『忘れた』となるケースはいっぱいある」(望月氏)。

 最後に同氏は、これまでのさまざまな支援に対する感謝を述べ、「ぜひ何らかの機会に、三陸周辺に足を運んでほしい」と講演を締めくくった。

 望月氏が語った内容は鉄道という事業の復旧に関するものだが、その本質は、業務継続、ITシステムの安定運用においても変わらない。4年前の今日を忘れることなく、自社の対策に問題はないか、見直してみてはいかがだろうか。

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