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"国語力"
投稿者 | 投稿内容 | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-16 15:21
るぱんです。
気になったのでお尋ねさせてください。 1.言葉で伝えるのはなんですか? a) イメージ・ビジョン b) 言葉 2.明確に伝える際にはどのようにしますか? a) 言葉を短くして要点だけを伝える b) 背景までみっちり説明してくどくどしていても、伝えきる 皆さんはどちらを選ばれますか? | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-16 16:08
状況が、わからないと答えようがないのでは? | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-16 16:41
こんにちは〜 芸達者です。
さらに追加! ってことで〜
3文字英単略語を並べないで欲しいぃぃぃぃ〜 業界違えば、別な意味になる場合もあるんだぞ! っと〜 | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-16 17:24
自分が良くしているのは・・・こっちかな? って感じで気楽に考えてください。 質問の意図は、概観でこっちを選択する事が多いようだ・・・って言う 意識の時点でずれてるんじゃないかな? って思ったためです。 | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-16 21:06
こんばんわ.
自分はイメージが多いようです. というより,「なるべく自分の言葉で伝える」ように心がけています. 誰かから聞いたことでも,自分の言葉に置き換えてみるように試みます. なので,イメージな話になりやすいです. で,まず「簡潔にハッキリ言う」ことが多く, そこから徐々に説明を付け加えていきます. 説明より先に結論を言ってしまうことが多いです. | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-16 21:28
unibon です。こんにちわ。
私も、「私」であることが明白だと"思います"。 私は「思います」を良く使う派ですが、「思います」を嫌うかたは割と良く見かけます。私は、99.9%確実であっても0.1%ほどの不確定さがあると、断言口調で言い切れないたちなので、そういうときは「思います」と言って、普遍的な見解ではないことを明示します。 | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-17 06:22
よっちゃん です。
再々脱線です。 レス主 さま m(__)m 済みません
3文字英単略語を カタカナ で書くなーー! 満員電車の中で声を出して、読め! とでも。 [ メッセージ編集済み 編集者: よっちゃん 編集日時 2004-11-17 06:23 ] | ||||||||
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投稿日時: 2004-11-17 07:43
国語力、大変興味深い議論です。現在自分は英語圏に住みながらアメリカの大学のコースを通信で受講しているので、言葉に関しては考えさせられることが多いのです。
この議論で"国語力"とは「日本語を使って論理的に考える力」という風に定義されているのがまず興味深いと思いました。なぜなら、日本語は元々それほど論理的ではないからです。こう言っても、決して日本語が他の言語より劣っているという意味ではないことをまずご了承ください。みなさんも経験があると思いますが、英語を日本語に直訳すると、なんだかやけに回りくどい文章になります。逆に、日本語から英語に翻訳する際には、色々な要素が欠けていることに気づきます。英語と比べて主語が不在というのが一番分かりやすい例でしょう。 ここで敢えて英語を上げたのは、自分が日本語以外で分かる唯一の言語である、というところもありますが、「論理的に考える力」を"強いられる"風潮は、やはり西洋の影響ではないかと思うからです。元々日本の文化圏内では、日本語で不自由することはなかったでしょうが(むしろ曖昧が良しとされる文化でもありましたし)、西洋的な論法や思考体系が輸入されたことで、日本古来の曖昧さが不便を生じ、それ徐々に排除されるようになったとも考えられます。特に経済的な不利益を生じる場合、それは間違いなく排除の対象になるでしょう。 西洋のキリスト教的価値観では「世界の全ては神が人間に与えたもうたものである」という大前提があり、それ故に言語学者ソシュールの発見が一大スキャンダルになったわけです(人間は単に、神の作ったものに名前を付けているだけではない、という発見)。英語をはじめとする西洋の言語には、ひとつの言葉が一つのものしか指さないという暗黙の了解をを含んでいます(denotation/connotationも認知されてはいますが)。そして、コンピューターも当然それを引き継いでいるわけです。(そうじゃないと通信規格なんかは成り立たないですけど(笑)) 「日本語を使って論理的に考える力」というのは、確かに現実的に考えて今の時代に必要なものかもしれません。しかし、それは西洋に追随することを前提とした場合です。ポストモダン的解釈では、「日本語ならではの曖昧さゆえの表現の豊かさ・美しさ」を再認識し、大切にする必要がある、とすることもできるのではないでしょうか。それは七味唐辛子さんの仰った「感情」に近いものかもしれません。 余談ですが、イギリスの多くのアートスクールでは、自分のアートワークができるまでの経緯を全てノートに綴り、最終的な作品の出来具合よりも、そのノートをもとに、作品がどのような経緯で論理立てられ、作られたか、というところがより重要とされます。論理的に作品を定義・説明できていれば、テーブルの上に鉛筆が一本置かれているだけでも良い、というような感じです。こういう類のコンセプチュアルアートには食傷気味、という部分もありますが、同じ芸術でも、日本の詫び寂びのように「なんとなく良い」という、感覚的かつ曖昧な価値観が排除される一例を見た気がしました。 |