量子コンピュータ時代に「暗号を交換できない」企業は危ない PQC移行の現実:実用化されてからでは遅い
量子コンピュータの実用化はまだ先。それでも企業は今、暗号の見直しを迫られている。攻撃者がデータを先に盗み、将来の復号を狙う「HNDL」への警戒が高まる中、PQC移行を阻むのは、意外にも「自社の暗号が分からない」という問題だった。
量子コンピュータへの期待が高まっている。従来とは異なる原理で計算する量子コンピュータは、現在のコンピュータでは膨大な時間がかかる一部の計算を効率化できる可能性がある。創薬や新素材開発、金融、物流など、複雑なシミュレーションや最適化が必要な分野での活用が期待されている。
一方、その計算能力はセキュリティにとって脅威にもなり得る。十分に大規模な量子コンピュータが実用化されれば、現在広く使われているRSAや楕円曲線暗号(ECC)などの公開鍵暗号の一部が、従来より効率的に解読される可能性があるためだ。
しかも、量子コンピュータが実用化されてから対応を始めればいいとは限らない。攻撃者が今のうちに暗号化されたデータを盗み出して保存し、将来、解読能力が向上した段階で復号する「HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)」攻撃が想定されているからだ。
量子コンピュータの「光と影」 なぜPQCが必要になるのか?
現在のインターネットでは、RSAやECCなどの公開鍵暗号が通信の保護や認証、電子署名など幅広い用途で使われている。これらは、現在のコンピュータでは解くことが難しい数学的問題を安全性の根拠としている。
しかし十分に大規模な量子コンピュータが実用化されれば、特定の量子アルゴリズムによって、こうした問題を効率的に解ける可能性がある。量子コンピュータの進化は、現在の暗号基盤を見直すきっかけにもなる。
そこで必要になるのが「ポスト量子暗号」(PQC:Post-Quantum Cryptography)だ。PQCは、将来の量子コンピュータによる攻撃を想定して設計された暗号方式で、既存の暗号基盤からの移行が進められている。
タレスが2026年8月27日に公表した「2026年版データ脅威レポート:量子技術とAIの動向」では、回答組織の61%がHNDL攻撃を量子セキュリティの最大の懸念事項に挙げた。59%は、量子安全性を確保するための主要施策としてPQCアルゴリズムの試作と評価を挙げている。
また、AI分野で先行する組織のうち、量子関連プロジェクトを積極的に検討している割合は33%で、同業他社の22%を上回った。これはAIへの取り組みが量子対応を直接促進することを示すものではないが、両分野に積極的な組織ほどデータや暗号基盤の見直しも進めていることがうかがえる。
PQC移行の壁は「暗号が分からない」 今からクリプトアジリティを
PQCへの移行で企業が直面する最大の壁の一つが、自社のどこで暗号が使われているのか分からないことだ。
暗号はTLS(Transport Layer Security)やVPN(Virtual Private Network)だけでなく、PKI(Public Key Infrastructure)、電子証明書、電子署名、コード署名、API認証、クラウドサービス、OS、ミドルウェア、暗号ライブラリなど、さまざまな場所に組み込まれている。自社開発システムだけでなく、利用するソフトウェアやサービス、取引先との接続まで含めて依存関係を把握する必要がある。
さらにPQCへ移行すると、鍵や署名などのサイズ、処理性能、既存システムとの互換性などに影響が出る可能性がある。大量の通信を扱うシステムやIoT、組み込み機器では、実環境での検証も欠かせない。
そのため、PQC移行は単なるソフトウェア更新ではない。暗号関連資産の棚卸し、依存関係の分析、リスク評価、性能検証、アプリケーション改修、証明書や鍵管理の見直しなどが必要になる。
ここで重要になるのが「クリプトアジリティ」だ。これは、暗号アルゴリズムや鍵、証明書などを、システム全体を作り直すことなく変更できるようにする考え方である。
PQC対応を「現在の暗号をPQCに置き換えて終了」と考えるのではなく、将来、新たな脆弱性や標準規格の変更が起きても暗号方式を交換できる構造にしておく。暗号処理をアプリケーションから分離し、鍵管理を独立させるといった設計は、そのための重要な手段になる。
こうした量子時代の暗号基盤を支える製品として、タレスは次世代ハードウェアセキュリティモジュール(HSM)「Luna 8」を発表した。HSMは暗号鍵を安全に保管・管理し、暗号処理をする専用機器だ。
Luna 8は、クラウドサービスや決済、ID管理などで利用される暗号鍵を保護し、既存環境を活用しながらPQCへの移行を支援する。既存環境との互換性を維持し、アプリケーションの大幅な変更を伴わない移行や、将来の暗号アルゴリズムへの対応を目指す。
タレスDISジャパン サイバーセキュリティプロダクト事業本部長の兼子晃氏は、HNDL攻撃が現実的なリスクとして認識されており、量子コンピュータの実用化を待たずに準備を始める必要があると説明した。暗号関連資産の棚卸しや依存関係の分析には時間がかかるため、重要データの暗号化や鍵管理の強化とPQC移行計画を並行して進める必要があるという。
量子コンピュータがいつ実用化されるのかを正確に予測することは難しい。しかし企業に必要なのは、その時期を当てることではない。まず自社のどこで暗号が使われているのかを把握し、将来、暗号方式を交換できるIT基盤を作っておくことだ。
量子コンピュータは新たな技術革新をもたらす可能性がある。その一方で、現在の「安全」の前提を変える可能性もある。量子時代への備えは、未来の脅威に備えるだけでなく、今のシステムを「暗号を交換できるシステム」に変える取り組みでもある。
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