第56回 ストレージ・レスのモバイル端末もいいじゃないか:頭脳放談
日立製作所がストレージレスのモバイル端末を導入すると発表した。ネット上では、この件に対する賛否両論が展開されている。この背景は?
2005年の正月休み明けに、日立製作所が社内に30万台あるパソコンを全廃、ストレージを持たないネット端末に更新するという趣旨の報道があった。「えっ」と驚かれた方も多いのではないだろうか。かなりの反響があったに違いない。掲示板やBlogなど、ネット上のあちらこちらに賛否両論の意見が掲載されている。筆者も遅ればせながらコメントさせていただこうと思う。
業務に必ずしもローカル・ストレージが必要なわけではない
特に念を入れて眺めて回ったわけではないのだが、「ユーザー」側的立場からするとどちらかといえば否定的な論調の方が優勢に見える。ただし報道のされ方、要は報道の見出しがスポーツ紙的(スポーツ紙の関係者の方が読んでいたらごめんなさい。ときどき駅で買っています)、センセーショナルな雰囲気をかもし出していたがために、必要以上にいろいろ波紋を引き起こしているようにも思える。
実際の日立製作所のニュースリリース文を眺めてみると実に控えめなもので、具体的に挙がっている数字は、取りあえず2年間で1万台に届かない程度の端末をモバイル用途に導入するといった話である(日立製作所のニュースリリース「抜本的な情報漏洩防止策を施した情報システムを開発し情報・通信グループを対象に導入)。例えば、販売用の専用端末を数万台導入する、といったケースは販売端末業界では大きな話だが、あり得ない話でもない。多分、そういう切り口で報道されたら、一般には話題になることもなかったろう。半導体屋から見ると、ICが数万個の商売でも小口案件である。
尾ひれが付く、というのはこのことであろう。「自分でPCを売っている日立製作所がパソコンをなくすと決断」ということで、ことさらセンセーショナルな見出しになったものと思われる。ニュースリリースを出した側の日立製作所の担当者は、してやったりと思っているのか、それとも意図しない方向にとられたと思っているかは分からない。しかし報道した側は、「パソコンがなくなるのがこれからのトレンド」と予想して書いたことは、多分間違いないだろう。特に2004年暮れのIBMがPC事業を中国の聯想集団有限公司(Lenovo)へ売却した件は記憶に新しいところだし、なおさらだ。
ネット上での否定的な論調の多くは、PCを使って仕事をしている諸氏からのものだと思う。かくゆう筆者もそうだが、ここを読んでいただいている方々も、日常的にPCを使っているので、ストレージ抜きの端末と聞くと拒否反応を示してしまうかもしれない。実際、筆者のような半導体設計者もPC抜きでは商売にならない。プログラムをアセンブルすることも、ICEを動かすこともできない。回路図も開けない。エンジニア、プログラマ、デザイナー、クリエイター、ライターといった肩書きの諸氏は多分皆さんそうだろう。
しかし考えなければならないのは、多くの会社の業務システム、例えば在庫管理、顧客管理、売り上げ管理、購買管理、受発注管理、人事管理、経理、財務などは、サーバ上のデータベース・システムがその実体であり、「ブラウザがあれば接続可能」であるものがほとんどのはずだ。そして、そういったシステムを使って数字を入れたり、出したりすることで仕事を進めていくことが、仕事時間の過半を占める方々もこれまた多いのだ。これは伝票を入力しているオペレータから実は経営トップまで含まれる。小さなベンチャー企業なら自分で回路図を書いている「経営トップ」もいるだろうが、ほとんどの企業の経営層は基幹系システムから上がってくる財務経理情報を見て経営判断していると思われる。トップとオペレータの違いは、全体を見るか、ごくごく一部を入力するかの違いでしかない。そのような場合、ローカルにデータを持っていても、何の意味もない。伝票がデータベースに入力されてはじめて工場が動き、物が出荷され、あるいは出金されるのである。経理情報も日々刻々と動いている。保護され保守されたストレージがネットワーク上にあればよいのだ。
もちろん速くて確実なネットワーク・インフラとサーバが前提となるが、こうした用途ならば、ブラウザに加えて電子メール・クライアントとスケジューラ程度があればかなり多くの人々の業務は達成できる。ワープロや表計算、プレゼンテーションといったオフィス・ソフトウェアもときどきはほしくなるだろうが、適当なビューワーがあればかなりは足りてしまうだろう。さらに、ちょっとした編集ができればほぼ大多数は問題ない。何もVBAやJavaを使ってアプリケーションが書けなくてもよいのだ。裏でSQLが動いていたとしても、知ったことではない。ましてや、C言語やアセンブラ、半導体の設計ツールのリストなどは見たくもないだろう。
ネットワーク・インフラが整ったいまこそネットワーク端末の時代か?
ネットワーク端末なんぞという言葉は相当前からあるのだが、これまであまりパッとした動きもなかった。実際、ホコリをかぶっているような「ネットワーク端末」がときどきころがっていたりする。しかし、考えてみれば仕事をするためのシステムとしては、十分使える状況になってきているように思われるのだ。これは端末側の機能が進化したというより、ほとんどすべての「業務システム」が「ネットワーク」に乗り始めた、という運用環境の変化の方が大きい。
日立製作所のケースでは、ローカルにストレージのあるデバイスを社外に持ち出した際に盗まれたりしたときのセキュリティを理由の一番に挙げていた。「そんなことのためにPCを全部なくすの?」という反応が正直多いようだ。だが、大事なデータが入った「ストレージ」を持ち歩くリスクは大きい。この10年くらい筆者はノートPCを持ち歩いている。本当になくしたことはないものの、なくしかけてまっ青になったことが1度だけある。いまや非常に大きなローカル・ストレージを持ち歩けるだけに、そこに入れておく情報によっては、会社が傾くことだって考えられる。
そういう観点からすれば、日立製作所の方針は非常にリーズナブルである。報道する側が「これがトレンド」と感じた気持ちも分かる。多分、同じことをする会社も増えるに違いない。ただし、ローカルなストレージを持ったPCが必要って人々もまた多いのである。何かしら「クリエイト」しないとならない人である。移行期はちょっとした混乱もありそうだが、ローカル・ストレージのあるものとないものをうまく折り合いを付けてシステム構築できたところほど、ITビジネス的には有利かもしれない。日立製作所のシステムがホコリをかぶらずにうまく運用できることを祈ろう。半導体屋的にはノンPCの「モバイル端末」でいい商売できるとよいのだが、そんなおいしい商売ではないだろう。PCですらもうかるハードウェアでないのに、それ以下ってことだから。
筆者紹介
Massa POP Izumida
日本では数少ないx86プロセッサのアーキテクト。某米国半導体メーカーで8bitと16bitの、日本のベンチャー企業でx86互換プロセッサの設計に従事する。その後、出版社の半導体事業部を経て、現在は某半導体メーカーでRISCプロセッサを中心とした開発を行っている。
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