「正しい方法を見つけて、それをずっとキープするのは間違い」――中国生まれのCTOが持ち込んだ、西海岸の風とは:Go AbekawaのGo Global!〜Li Rutong編(前)(1/2 ページ)
コンテンツ配信を担う「U-NEXT」でCTOを務めるLi Rutong(リー・ルートン)氏。電子部品を組み立てて一人で遊ぶような「オタクな子ども」だったルートン氏は、中学で出会ったコンピュータをきっかけにその才能を開花させる。起業での失敗から立ち直り「もっと成長したい」と彼を動かしたものとは何だったのか。
世界で活躍するエンジニアの先輩たちにお話を伺う「GoGlobal!」シリーズ。今回はコンテンツ配信を手掛ける「U-NEXT」でCTO(最高技術責任者)を務めるLi Rutong(リー・ルートン)氏にご登場いただく。
13歳で与えられたPCは親の年収2年分
阿部川“Go”久広(以降、阿部川) まずは生年月日をお教えいただけますか。
ルートン氏 1981年3月で、現在38歳です。
阿部川 お若いですねえ。お生まれはどちらですか。
ルートン氏 中国の天津(てんしん)です。北京(ぺきん)の少し南に位置する町です。小学校は、住んでいたところの学区にあるごく普通の小学校でした。中学、高校と天津で、大学で上海(しゃんはい)に移りました。
阿部川 小学校のときは、どんなお子さんでしたか。おとなしいとか活発だとか。
ルートン氏 あ〜いじめられっ子だったと思います。まあ今考えるとですが(笑)。
阿部川 なぜそう思われるのですか。
ルートン氏 はっきりとは覚えていないのですが、今いじめに関するニュースが毎日ありますよね。それを見ると、あっ、自分もいじめられっ子だったんだなと思います。みんなと一緒に遊ぶようなことはできずに、一人で電子部品をいじっているような、いわゆる「オタクな感じ」でしたから。
阿部川 1980年代の天津というのは、コンピュータや電子部品などが簡単に手に入るようなところだったのですか。
ルートン氏 いえいえ、とんでもないです。私が4歳か5歳のときは、食べ物すら配給制でした。当時は一人っ子政策のさなかでしたから。
阿部川 そんな中、コンピュータとの出会いはいつだったのですか。
ルートン氏 中学でのコンピュータの授業です。私が通っていた中学校は、国全体では取り組んでいないような教科を実験的に取り組んでいました。運良くそのような中学校に入ることができて、そこから新しいことをどんどん学んでいきました。それが初めての出会いでしたね。
阿部川 どんなものか覚えてらっしゃいますか。ハードウェアの機種だとか使われたソフトウェアだとか。
ルートン氏 ハードウェアのメーカーはどこかは忘れてしまいましたが、チップはIntel 80286で、メモリは256KBでした。当時の中国の学校においては超高級機種だったと思います。授業で教えられるままに、どんどん触って覚えていきました。最初はゲーム目当てでした(笑)。両親は、この子はやっと好きなものを見つけた、と思ったんでしょう。それで家の貯金を全部はたいて、PCを買ってくれました。
阿部川 素晴らしいご両親ですね。
ルートン氏 本当に感謝しています。というのも恐らく年収の2倍くらいの値段だったと思うんです。今になるとひしひしと感謝の念が強まってきますね。
在学中に起業して「もっと成長しなければならない」と決意
阿部川 高校を卒業後、上海の同済大学にお入りになるのですね。コンピュータ学科を専攻されたのですか。
ルートン氏 いえ、そうではありません。大学で学ぶコンピュータサイエンスの内容は既に高校のときに終えていたので「入っても意味があるかなあ」と思い、電子工学の学科に入りました。子どものころから、モーターとか電球とか電子部品などをよく触っていましたから、私としては自然な流れでした。
阿部川 大学で4年間勉強なさって卒業し、そして起業なさったんですか。
ルートン氏 在学中に起業しました。大学の教授と一緒に「研究室的な会社」とでも言えばいいのでしょうか。大学4年生のころから始めて、卒業後2年くらいはその仕事をしていました。4年生になると授業もそれほど多くないので、そのまま仕事に就いたような感じです。
阿部川 起業して間もなく2005年にソニーに入社されたのですね。何か理由があったのでしょうか。
ルートン氏 はい。起業して、その業務そのものはうまくいっていたのですが、顧客とのやりとりで失敗してしまって……。社会人として甘かったんですね(苦笑)。
阿部川 苦労されたんですね。
ルートン氏 それもあって「もっと成長しないといけないな」と思い、一度は大企業に入ってしっかり勉強しようと考えて、ソニーに入社しました。当時ソニーは上海で積極的に採用活動をしていて、多くの学生たちが応募していました。だったら自分も、ということで行ったら、採用されました。
阿部川 ソニーではどういったお仕事をされたのですか。
ルートン氏 映像機器のユーザーインターフェース(UI)やドライバを開発していました。最初は東京でしたが、愛知県に工場があるので、2年間ぐらいは東京と愛知の工場を行ったり来たりする生活でした。
阿部川 トリニトロン(ソニーが開発したブラウン管テレビ)を始めとして、ソニーの中でも映像分野は研究の王道だったのではないですか。
ルートン氏 おっしゃる通りです。私の部署は、ソニー全体が苦境だったときでも10年くらいはずっと黒字のままでした。どの分野でもカメラは必要とされていましたから。
阿部川 5年ソニーにいらっしゃったわけですが、何が一番記憶に残っていますか?
ルートン氏 うーん、東京より岡崎(愛知県)が好きということですね(笑)。もともと「まあまあの大都市」である上海から来ましたから、東京の「他人にあまり干渉しない」という付き合い方は慣れていました。ところが岡崎では全然違って、人との交わりが頻繁にありました。近所の方とのあいさつといった、生活の中にあるほんのちょっとしたことでも暖かみが違うように感じました。その意味ではずっと岡崎にいたいと思っていました。ただ私の好きな分野のチャンスはあるかというと、やはり東京の方が豊富だったので……。もし自動車に興味があれば、ずっといたかもしれませんね。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
関連記事
- ソニー銀行が語る「Amazon WorkSpaces」導入のポイント
多数の事例取材から企業ごとのクラウド移行プロジェクトの特色、移行の普遍的なポイントを抽出する本特集「百花繚乱。令和のクラウド移行」。ソニー銀行の事例では、仮想デスクトップ基盤システムの移行におけるポイントを中心にお届けする。 - 富士通ソフトウェアテクノロジーズが7年続けたウオーターフォールを辞めた理由
7年に渡ってウオーターフォール型で開発してきたプロジェクトでアジャイルを採用した富士通ソフトウェアテクノロジーズ。成功を収めたポイントはどこにあったのだろうか。 - Scrum Inc.に聞く、アジャイル開発がうまくいかない理由と、イノベーションを起こすために必要なこと
デジタルトランスフォーメーション(DX)のトレンドが進展し、テクノロジーの力を使って新しい価値を打ち出す「企画力」と「スピード」が、ビジネス差別化の一大要件となっている。その手段となるアジャイル開発やDevOpsは企業にとって不可欠なものとなり、実践に乗り出す企業も着実に増えつつある。だが国内での成功例は、いまだ限られているのが現実だ。本連載ではDevOps/アジャイル開発の導入を支援しているDevOps/アジャイルヒーローたちにインタビュー。「ソフトウェアの戦い」に勝てる組織の作り方を探る。