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第259回 日本の半導体産業はどうしてダメになったのか? 今だから分かる3つのターニングポイント頭脳放談

1980年代、日本の半導体産業は世界で重要な地位を占めていた。2021年の今から振り返ると、3つのターニングポイントでの失策によって、日本の半導体産業は地位を失ってしまったように思える。どこで道を間違ったのだろうか?

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 編集部から「日本の半導体産業の凋落(ちょうらく)について書いてほしい」というリクエストがあった。「了解」と答えてしまったのだが、少し心が痛むものがある。業界の末座で右往左往していただけにせよ、その責任の一端のそのまた先っぽくらいは自分にもある、多分。「どの口で物を言う」とか「お前に言われたくない」とか指摘されそうな気もする。敗軍の将ならぬ、敗残兵の悔し紛れの世迷言と思って読み飛ばしてもらえたらありがたい。

振り返ると見えてくる3つのターニングポイント

 その昔、日本半導体が世界の半分を占めた時期がある。若い人からすると、「そんな時代もあったの?」となるだろうが、ビジネス向けのPCが登場し、バブル景気に入ろうかという1980年代のことだ。

 しかし、そこから約40年。凋落を重ねて、今やその火も消えかかっているような状況である。昨今、政府のテコ入れ策もあり、ここからリバイバルできるのかが問われている。振り返ってみると凋落の過程には、3つのターニングポイントがあったように思える。

 「もし」はあり得ない。が、ターニングポイントでの決断次第では日本半導体の中から、今日のIntelやTSMC、Samsungに匹敵する組織が現れていてもおかしくはなかった、と悔やまれるのだ。実際には、ターニングポイントの全てで失策を繰り返した結果として今日があるのだが……。

1980年代のターニングポイント:日米半導体摩擦

 まずは日本半導体の絶頂期、1980年代を見てみよう。この時代、強かったのは半導体だけではない。「電子立国日本」とNHKが持ち上げていた時代であったのだ。日本の総合電機メーカー各社は、ビジネス的にも技術的にも世界を席捲(せっけん)していた。

 そして、80年代後半にはバブルがやってくる。資金調達など「秒」だったはずだ(今では考えられないが)。規模や条件、前半か後半かでも大分違うが、この時代はざっくり数十億円から数百億円あれば立派な半導体工場ができただろう。

 日本の半導体メーカーは、総合電機メーカーの一部門であることが多かった。会社規模も大きく、資金調達も余裕、この時代の日本半導体がイケイケ(死語か)で突っ走ったのは、言うまでもない。

 それにイチャモンをつけてきたのが、米国の半導体企業だ。その代表を「Intel」という。今のIntelのサイズを想像してはいけない。この時代のIntelは、最先端の半導体を開発してはいたものの、日本の総合電機産業に比べたら一桁小さい規模感だ。

 大体、半導体市場全体のサイズも今からすると桁違いに小さい。この時代、日米両政府とも、産業規模の割には「ウルサイ」業界、という程度の認識だったと思う。

 しかし、そのうるささが功を奏した。時代は日米経済摩擦が問題になっていた。米国政府は「イラついていた」のだ。その中の象徴的な「案件」が日米半導体摩擦であった。細かい経緯は省くが、日本政府の出した答えは「米国製品をある割合買ってやれ」というものだった。

 日本の半導体メーカーの多くは、コンピュータや家電その他の部門を抱えており、半導体の生産者であり、半導体の需要家でもあった。バブルへ向かって景気はよかった。消費する半導体のうち、20%やそこら米国製品を買ったってたいしたことがないだろ、という感じだ。

 この時期、半導体の需要家へ売り込みに行くと、「国産のCPUなんか持ってきてもらっても困るんだよね」と言われたものだ。結局、米国の半導体産業から買ってもよさそうなものは、CPUしかなかった、ということだ。

 メモリなどは国産の方が価格も、信頼性も、デリバリー(供給)もよい。それどころか、米国の半導体メーカーは、メモリから撤退を始めてもいた。

 泡沫(ほうまつ)なCPUはさておき、当時、日本半導体の精鋭各社は、「TRON-CPU」を作るプロジェクトを展開していた。国産「TRON-CPU」の上で国産の「TRON-OS」を走らせるコンピュータ、そんなものが構想されていたのだ。

 今からすると夢想にも思えるかもしれないが、この時代であれば不可能ともいえなかった。何せ電子立国日本の電子産業は世界最強、そして相手のIntelやMicrosoftは、日本の総合電機産業が巨人なら小人のサイズだったのだ。

 日本規格のパソコンで世界市場を席捲する、という可能性はあったと思う。しかし、半導体摩擦の結果は「すみ分け」だった。日本はメモリやASIC、米国はCPUという役割分担だ。その結果、日本のどこかの会社が今のIntelの位置を占めるという機会は失われたのである。

1990年代のターニングポイント:バブル崩壊

 続く1990年代のターニングポイントは、言わずと知れたバブル崩壊だ。崩壊して何かが一気に変わったということではない。崩壊の影響がじわじわと日本半導体の体力も技術力も奪っていった時代、と言っていいだろう。

 当然のことだが、資金調達は困難になって、各社やりくり算段が厳しくなる。一方、半導体工場を新設する費用は嵩んでいく。この時代の後半になると先端工場は1000億円規模となる。

 ここで半導体が、大きなメーカーの一部門であることの足かせが明らかになってくる。総合電機産業の各事業部門とも限られた投資資金を自分のところに持ってきたいわけだ。その中でも半導体の投資は巨額。そして、よく知られているように半導体の好況、不況の波は非常に大きかったのだ。ダラダラと不況で赤字が続き、あるとき突然に売れてガッポリもうかるという感じだ。

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