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マルチエージェントは「チーム」になれるのか 50年前の古典が突きつける不都合な法則及川卓也からエージェント時代の開発者たちへ(7)(1/3 ページ)

2026年、多くのチームが「マルチエージェント」という魔法の杖に手を出し、そして壁にぶつかり始めています。AIエージェントを複数並行させれば生産性は上がる。そう信じたくなる気持ちは分かります。しかし50年前、ソフトウェア工学の古典が既に警告していました。「人を増やすと、かえって遅くなる」と。その法則は、形を変えてAIエージェントの世界にも姿を現しています。

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人間5人のリモートチームすら回せないのに

 私はこれまで、さまざまな規模のチームを率いてきました。グローバル企業でタイムゾーンが複数にまたがるチームや、社員以外に複数の協力会社も関わるようなプロジェクトチームなど。こうした経験を通じて痛感しているのは、「チームというものは人数を増やせば強くなるわけではない」という、ごく当たり前の事実です。

 5人のリモートチームでさえ、全員の認識を揃えるのは骨が折れます。メールスレッドが枝分かれし(今だったら、Slackでしょうか)、議事録を読んだ人と読んでいない人の間に認識のずれが生じ、「あれ、その仕様って変わったんでしたっけ?」というやりとりが週に何度も発生する。人数が10人になれば、この調整コストは倍どころでは済みません。6人チームでコミュニケーションの経路は15本ですが、12人になると66本に膨れ上がります。人が増えるたびに、意思疎通のための「見えないコスト」が加速度的に積み上がっていくのです。

 AIエージェントの世界でも、似たようなことが起き始めています。例えば、社内のナレッジ整理にエージェントを導入するケースを考えてみてください。議事録の要約、FAQの自動生成、社内wikiの更新。それぞれ別のエージェントに担当させれば、バックオフィスの工数は劇的に減るはずです。

 ところが実際には、要約エージェントが拾った決定事項と、FAQ生成エージェントが参照した情報にずれが生じる。wiki更新エージェントが古い情報を上書きしてしまい、それを要約エージェントが「最新」として拾ってしまう。各エージェントの出力を突き合わせて矛盾を解消する作業が増え、「結局、人間が全部チェックし直すなら最初から1つのエージェントでよかったのでは」と後悔する。エージェントが増えた分だけ、人間側の「調整コスト」も増えた。SNSで華やかに語られるエージェントの成功例の裏では、こんなことがあちこちで起きています。

 これは、複数のエージェントに順番に処理させれば起きなかった問題かもしれません。でも、並列処理させないのであれば、一つのエージェントだけで十分です。エージェントは人とは違い、疲労することはありません。

 人間5人のチームすら満足に回せないのに、AIエージェント5体なら回せると考える根拠は、一体どこにあるのでしょうか。

50年前の警告――ブルックスの法則

 この問題を考えるとき、私はどうしても1冊の本を思い出します。

 フレッド・ブルックス(Fred Brooks)が1975年に書いた「人月の神話(The Mythical Man-Month)」。ソフトウェアエンジニアリングに携わる人なら、名前くらいは聞いたことがあるでしょう。50年以上前の本ですが、その核心的な洞察は今でも全く色褪せていません。

 この本に書かれている法則――著者の名前を取って「ブルックスの法則」と呼ばれます――を一言で言えばこうなります。「遅れているソフトウェアプロジェクトへの人員追加は、プロジェクトをさらに遅らせる」。

 なぜでしょうか。理由は3つあります。まず、先ほども書いたように、チームの人数が増えるとコミュニケーションパスが組み合わせ的に爆発します。人を倍にしても、成果は倍にならない。情報を共有し、認識を揃え、合意を形成するためのコストが、人数の2乗に比例して膨らんでいくのです。次に、新しいメンバーの学習コスト。既存メンバーが手を止めてプロジェクトの文脈を教える時間が発生します。教える側の生産性が落ち、教わる側がまだ戦力にならない「谷間」の期間が、プロジェクト全体のペースを引きずり下ろすのです。そして3つ目が、分割できないタスクの存在です。ブルックスはこれを「妊婦を9人集めても、1カ月で子供は生まれない」と表現しました。本質的に逐次的な作業は、何人投入しても速くならないのです。

 私自身、Microsoftにいるときに、このような事態に巻き込まれたことがあります。ある大規模プロジェクトが遅延し、マネジメントが「人を増やそう」と判断。新しいメンバーが加わるのですが、プロジェクト固有の設計思想やコードベースの構造を理解するには時間がかかります。その説明に既存メンバーの時間が吸い取られ、彼ら自身の作業が止まり、プロジェクトはますます遅れる。マネジメントは「まだ足りないのか」とさらに人を追加し、状況は悪化の一途をたどる。あの既視感(デジャヴ)が、AIエージェントの世界で再び蘇ろうとしています。

PRは倍増した レビュー時間も倍増した

 「ブルックスの法則がAIエージェントにも当てはまる」。これは私の個人的な感想ではありません。データが物語っています。

 エンジニアリングデータ分析を手がけるFaros AIが、1万人以上の開発者と1255チームを対象に実施した調査によれば、AI導入度の高いチームではPull Request(PR)のマージ数が98%増加しました。一見すると大幅な生産性向上です。しかし同時に、レビュー時間も91%増加していたのです。つまり、ボトルネックが移動しただけなのです。コードを「書く」工程はエージェントが加速させましたが、それを「読んで判断する」工程に負荷が集中しました。コードは書くよりも読む方が難しい。ましてや自分が書いていないコード、しかもAIが生成したコードのレビューには、通常のコードレビュー以上の注意力が必要です。エージェント導入の隠れコストとして、この「レビューコスト」を事前に見積もっているチームは驚くほど少ないのが現状です。

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