数学が苦手だった、だからITの道に進んだ:Go AbekawaのGo Global!〜Theint Kaythi San(前)(2/2 ページ)
グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はSGシステムでシステム開発を担当する、Theint Kaythi San(ティン・ケイティー・サン)さんにお話を伺う。どちらかといえば内向的だったティンさんが「自分から行動しなきゃ楽しめない」と考え方を変えた、留学先での出来事とは。
留学先は新潟
阿部川 高校卒業後、来日します。留学プログラムで、とのことですがどうして新潟だったんでしょう。
ティンさん 私が参加したのは、日本にホームステイするというプログラムでした。その受け入れ先が新潟のご家族だったんです。
阿部川 どうして日本だったんでしょうか。
ティンさん 理由は2つあります。1つは、母の職場である学校に見学に来たり寄付したりしに来る日本の方との出会いです。日本の人って優しいし、丁寧だなと感じたので、日本に行ってみたいと思うようになりました。
もう1つは、日本製品です。電化製品などはミャンマーで結構有名で、日本製は高いけれど長持ちするので、テレビや冷蔵庫は日本製品を買いました。技術面でも憧れがあったので、日本への留学チャンスがあったときに行ってみたいと思って、日本に決めました。
阿部川 大変うれしいです、ありがとうございます。日本のいいところをティンさんが見つけてくれたのですね。新潟にはどのぐらい?
ティンさん ミャンマーを出国したのが2010年の4月で帰国したのが2011年2月でしたので、10カ月ぐらいでした
阿部川 3月だったらまだ雪がありますよね。とても寒かったでしょう?
ティンさん ミャンマーとの温度差が20度以上だったので、結構びっくりしました。
阿部川 1年ほど新潟の高校に通ったんですね。日本人の友達もできましたか。
ティンさん たくさんできました! 高校2年生のクラスに通って同じ授業を受けました。
ミャンマーだと「この問題に対する解答を出してください」と1から全部自分で解答を探したのですが、日本の授業だと、答えまでのステップが幾つか表示されていて、そこに解凍を入れるというパターンが多かったです。私はミャンマーのやり方に慣れていたので、回答を入れることはそんなに難しくなかったですね。ただ、漢文は苦労しましたね。その分、1番印象に残っていますけど。
ティンさんのお話とはちょっと違うかもしれませんが、昔(たぶん20年くらい前)、日本と諸外国で「問題の出し方」が話題になったことを思い出しました。日本は「8+2=□」のように答えだけを考えさせるが、諸外国では「8+□=10」といった形で問題そのものを考えさせる、といったものでした。理解の早さ、応用のしやすさなどそれぞれ良しあしはあると思いますが、実際の仕事では問題や解き方を考えることが重要なので、「ミャンマー式」はエンジニア向きの教育方針といえますね。
阿部川 漢文ですか!
ティンさん 漢文は全部漢字ですし、その漢字をさらに日本語に訳す必要がありますよね。最初は特に分からないことが多かったので、先生が黒板に書いている文字を一生懸命ノートに写しました。
阿部川 多くの日本人もそうやって勉強していると思います。古い日本語を新しい日本語で勉強しますから、日本人にとっても、違う国の方にとっても難しいことだと思います。英語ネイティブの人もシェークスピア以前の英語は読めませんので、同じです。ちなみに勉強以外で思い出に残っていることはありますか。
ティンさん 同年代の友達がたくさんできたことと、学校に通いながら日本のいろいろな文化を自分で体験して学べたことです。
私は内向的な性格だったんですけれど、留学生活を楽しむためには自分から行動しなきゃいけないとか、友達になりたければ自分から話し掛けることが大事だとか、そういうことを知ることができて。まだ「外交的」とまではいきませんが、留学のおかげでちょっと明るく、人に話し掛けられるようになったので、自分にとって貴重な思い出というか、いい機会でした。そこで知り合った友達とは、今でも連絡を取り合っています。
阿部川 自分から近づいていかないと、友達はできないですよね。おっしゃる通りだと思います。今でもお付き合いがあるというのは本当に素晴らしいですね。
back to ミャンマー
阿部川 10カ月の留学後はミャンマーに戻られて、ヤンゴンコンピュータスタディーズ大学(University of Computer Studies Yangon)に入学します。数学が嫌いだったのに、なんでまたコンピュータ関連の大学に行こうと思ったのですか。
ティンさん お恥ずかしい話になりますが、数学が苦手だったので「コンピュータなら数学の計算も自動でやってくれるんじゃないか」と思いました。後は、当時ミャンマーでIT系の仕事が有名になり始めていたんです、自分が将来的に何の仕事をするかは具体的には決めていなかったんですけど、こういう風な仕事をしたいというイメージはIT系が近かったので、ヤンゴンコンピュータ大学でコンピュータについて勉強することにしました。
インタビュアーも話していますが、何かを学ぶときの動機はシンプルなほどいいと思います。世間的に注目されているからとか今後伸びそうだからというのももちろん大切ですが、「あんなこといいな、できたらいいな」と夢を膨らませた方がより前向きに勉強できると思います。私も幼いころに車のデザイナーになりたかったのですが絵心がなかったので「コンピュータに何とかしてもらおう」と思ってその方面に興味を持ちました。シンプルな動機、大事。
阿部川 それまで学校の授業などでコンピュータに触ったことはありましたか。
ティンさん 初めて見たのが確か中学校2年生のときでしたね。丸い型の結構昔のコンピュータでした。「進化している技術を学ぶ」という授業があって、1人当たり2、3分ぐらい触って、先生が操作しているのを見ていろいろ質問しました。
阿部川 そこで初めて出会ったということですね。コンピュータを知りたいというよりも「これを使ったら楽できる」と考えたのですね。それ、すごく大事なことだと思います。大学ではどんなことを勉強したのですか。
ティンさん プログラミングはもちろん、ネットワークやAI(人工知能)の科目まで、4年間さまざまな科目を学びました。
新しい技術も学びますが、4年間ずっと欠かせないのはプログラミングでした。1年生で「C言語」を、2年生と3年生は「Java」、4年生では「PHP」を学びました。なんだかんだプログラムが1番好きでしたね。後輩は、「Python」や「Ruby」もやっていると聞いたことはあります。私は授業でRubyは学びませんでしたが、卒業プロジェクトで、学生何名かのグループでRubyを使い、Webサイトを作りました。
阿部川 企業でのインターンも経験したのですよね。
ティンさん 私がインターンに参加したのは、従業員20人ぐらいの小さなベンチャー企業でした。インターンといっても、期末試験前の15日ぐらいの短い期間です。インターン先のエンジニアと一緒に行動して、朝のミーティングから夕方の報告会までどういう業務の流れがあるのか、プログラマーの業務はどのようなものかといったことを体験するものでした。働く環境を体験できたし、就職活動する際に大事なことなどを学ばせてもらえたので、数日間でしたけど、良い経験になりました。
阿部川 ミャンマーで就職するつもりはなかったんですか。
ティンさん ありましたよ。2年間ぐらいミャンマーで就職して、そこから日本の企業に転職して日本に行こうと計画していました。ただ、4年生のときに参加したイベントで、日本で働くチャンスをいただきましたので、日本にすぐ来たというわけです。
「数学が苦手」から「だったらコンピュータに任せればいい」と発想を転換し、エンジニアとしてのキャリアを進み始めたティンさん。恐らくその道に進むことを決めたとき、日本での楽しい留学生活を思い返していたに違いない。後編は新天地である日本での生活と仕事について。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
関連記事
- 就活のお供は「魔法のスプレッドシート」と「インターン」
Kaggleにハマった2人の大学生は、明確な判断基準を持って就職先を探し、決めた。グランドマスターは最終地点ではなく、その先を見つめていたから。 - ミャンマーの女性はエンジニアを目指すことをためらわない
グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はAiritechのKhine Zar Thwe(カイザー・トウエ)さんにお話を伺う。「成功者といえば医者かエンジニア」という国で生まれた少女が日本への留学を決めたきっかけとは。 - AKB48のみーおんがプログラミングに挑戦したら、センスが良すぎてちょまどがもん絶した件
AKB48総監督の向井地美音さんが、Microsoftの千代田まどかさんの手ほどきを受けて、プログラミングに初挑戦! 盆と暮れと正月とクリスマスとバレンタインが一緒に来たようなトキメキ☆イベント、萌(も)えるしかないじゃない。