コードが「新しいアセンブリ言語」になるAI時代、日本の「職人気質」がソフトウェア開発の足かせになる理由:元メルカリCTOが語る、AI時代のグローバル開発(2)(2/2 ページ)
元メルカリCTOが日本企業のグローバル開発とAI時代の組織づくりについて、当事者としての経験を語る連載。第2回は、「暗黙知」を無意識のうちに生み出している日本の「ハイコンテクスト」な文化について。
コードが「新しいアセンブリ言語」に、それでも変わらないエンジニアリングの本質
AIの進化は、ソフトウェア開発における「価値の源泉」を根本から変えようとしています。 そもそもソフトウェアエンジニアリングにおいて、コーディングの重要性は実はそれほど大きくありません。要求の理解や設計、検証といった工程にこそ、本質的な価値が費やされてきたのです。AIの登場は、その事実を誰の目にも明白にしたに過ぎません。
ソフトウェアの記述レイヤーは常に抽象度を上げ、より「意味(意図)」に近い層へとシフトしてきました。そして今まさに「ソースコード」そのものに対して同じことが起こっています。PRD(製品要求仕様書)などの仕様を与えればAIがコードを自動生成する時代において、ソースコードは「新しいアセンブリ言語」になりつつあります。誰もアセンブリ言語を手書きで保守したいと思わないように、このパラダイムシフトによって「コードは資産だ」という認識が崩れつつあります。実装コードの体感的な寿命は「日〜週」単位となり、いつでもAIによって自由に再生成できるものへと変化したのです。
AIは「コードを書く」という作業コストをほぼゼロにしましたが、現時点ではまだ人間の仕事がなくなったわけではありません。以下の4要素はAIに任せ切りにはできず、依然として人間の仕事として残されています。
- 要求を理解する(何を、なぜ作るのか)
- 言語化する(仕様として明示する)
- 設計する(どう組み立てるか)
- 検証する(意図が正しく実現されているかどうかを確かめる)
これらは全て、高度な言語化と「ローコンテクストなコミュニケーション」を前提とする能力です。AIを単なるツールとして使うのではなく、AIが働く足場を組むこと(Scaffolding)や、自律的に働ける環境を設計すること(Harness Engineering)が求められます。言語化されていない暗黙知は、AIエージェントにとって「存在しない」のと同じなのです。
暗黙知をなくす第一歩は「マニュアル化」ではない
では、長らくハイコンテクストな文化に浸ってきた日本の開発組織は、どのように組織変革を進めればよいのでしょうか。
組織文化を変えるには、経営層のトップダウンの号令だけでは不十分です。現状維持バイアスが強く暗黙知に依存してきた組織において、変革を推進しようとすると必ず現場から強い抵抗が生まれます。変革を推し進める現場のキーパーソンを特定し、彼らが孤立しないよう強力にバックアップし続けることが求められます。
ローコンテクスト化を推進する上で陥りがちな“わな”が、「とにかくマニュアルを大量に書く」ことです。ドキュメントの量ではなく、その参照頻度や更新頻度をKPI(Key Performance Indicator)にすることが重要です。
ドキュメントだけに頼るのではなく、業務フローの中にミスを防ぐ「ガードレール」をシステムとして組み込むことも重要になります。マニュアルを隅から隅まで読み込まなくても、自然と正しい作業へと誘導される仕組みを作ることこそが、真のローコンテクスト化の一環です。
組織がローコンテクスト化に向かっているかを測る指標として、例えば過去に所属していたチームでは「新しいメンバーが入社してから最初のプルリクエスト(コードの修正提案)を出すまでの期間」を採用していました。この期間が短縮されていれば、ドキュメントや仕組みによって人間だけでなくAIにとっても自律的に動きやすい環境になっているはずです。
「言わなくても通じるはず」という錯覚から抜け出す。メタ認知と「モード切り替え」の必要性
「日本はハイコンテクスト文化を完全に捨て去るべきだ」と言いたいのではありません。ハイコンテクスト文化が生み出す「阿吽の呼吸」や独自の美意識は、日本文化の独自性や魅力そのものを支える基盤であり、守るべき価値でもあります。ただし、IT業界においては「同質性の高いチーム」という前提自体が、既に幻想になりつつあることには注意が必要です。
そもそもハイコンテクストとローコンテクストは相対的なグラデーションであり、日本国内でも関西と東京で前提に違いがあるように、米国でも地域によってコンテクストの度合いは異なります。
例えば、多民族国家である米国でさえ、異文化への想像力が乏しく、自らのコンテクストから一歩も出ようとしないケースは多々見受けられます。これは同質的な心地よい環境にとどまろうとする、人間の普遍的な傾向と言えます。
一方で、AI時代に存在感を増しているインドの技術者たちはどうでしょうか。彼らは憲法で認められた22の言語や異なる宗教、文化が混在する環境におり、そもそも「言わなくても通じる」という前提が成り立ちません。異文化への心理的抵抗感が低く、共通言語の英語を話す際には、意識的に「ローコンテクストなモード」へと切り替えています。環境がモード切り替えを日常的に訓練させているのです。
私たちが目指すべきは、自らの文化を否定したり、無理に捨てたりすることではなく、自分たちの現在地を俯瞰する「メタ認知」の能力を身に付け、コンテクストの「モード切り替え」を会得することではないでしょうか。
相手には自分には想像もつかない背景があり、コンテクストは完全には共有できないという前提に立つこと。このメタ認知を持った上で、ITやAIに関わる協働においてはハイコンテクストへの依存から意識的に距離を置く必要があります。一方で、文化や芸術などの分野では、ハイコンテクストの強みはむしろ日本文化ならではの武器であり続けます。この「モードの使い分け」ができるようになることこそが、日本企業が生き残るための鍵となります。
「AIについて学ぶ」時代は終わり、「AIと一緒に作る」時代がやってきました。自分たちを相対化し、異なる環境への適応力を高めるために、私たちは長年親しんできた「重過ぎるコンテクスト」という殻を破り、明示的な言語化という新たな武器を手にしなければなりません。それこそが、AI時代における真のグローバル開発のスタートラインなのです。
筆者紹介
若狹 建(Ken Wakasa)
Tech Japan株式会社 シニアテクニカルアドバイザー、合同会社桜文舎 代表社員CEO
東京大学大学院工学系研究科情報工学専攻修了後、富士通研究所にて研究開発に従事。Sun Microsystemsおよびソニーで組み込みソフトウェア開発を担当。GoogleではGoogle Mapsの開発を経て、2010年以降はAndroid OS開発チームでフレームワーク開発に携わる。Appleでのシステムソフトウェア開発、LINEでのメッセンジャークライアント開発統括を経て、2019年株式会社メルカリに参画。執行役員CTO MarketplaceおよびGroup CTOを歴任し、2022年からMercari India取締役Managing Directorを兼務、2024年に退任。現在は複数社の技術アドバイザー・技術顧問を務める。
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