コードが「新しいアセンブリ言語」になるAI時代、日本の「職人気質」がソフトウェア開発の足かせになる理由:元メルカリCTOが語る、AI時代のグローバル開発(2)(1/2 ページ)
元メルカリCTOが日本企業のグローバル開発とAI時代の組織づくりについて、当事者としての経験を語る連載。第2回は、「暗黙知」を無意識のうちに生み出している日本の「ハイコンテクスト」な文化について。
Googleでソフトウェアエンジニアとして「Google Maps」「Android OS」の開発に携わり、メルカリで執行役員Group CTOおよびMercari India取締役Managing Directorを歴任した若狹建氏が、日本企業のグローバル開発とAI時代の組織づくりについて語る本連載「元メルカリCTOが語る、AI時代のグローバル開発」(聞き手・構成:Tech Japan)。
連載第1回では、「優秀な人材を採用すれば組織は強くなる」という幻想に対し、メルカリの開発組織の当事者としての経験を交えながら、日本企業に立ちはだかる「組織の暗黙知」の壁について解説しました。第2回となる今回は、この「暗黙知」を無意識のうちに生み出している日本の「ハイコンテクスト」(高文脈)な文化に焦点を当てます。
なぜ、日本社会に深く根付くこの文化が、グローバルな開発環境やAI時代では足かせとなっているのでしょうか。日本の製造業の歴史的な成功体験から現在のソフトウェア開発の構造的課題、生成AIとの協働に至るまで、そのパラダイムシフトを解き明かしていきます。
※本記事における内容は個人の見解であり、過去に所属した組織の公式見解を代表するものではありません。
なぜ「職人気質」はソフトウェア開発で差別化にならないのか
「以心伝心」「阿吽(あうん)の呼吸」「空気を読む」「察する」。これらの言葉に象徴されるように、日本は世界でも類を見ないほどハイコンテクストな文化を持つ国です。明示的に全てを伝えなくても高度な意思疎通が図れるこの文化は、同質性の高い集団においてはコミュニケーションコストを劇的に下げ、摩擦の少ない迅速な意思決定を可能にしてきました。
日本の産業、とりわけ技術開発の現場において、この文化は「職人気質」と深く結び付いてきました。 かつてのブラウン管テレビの製造や精密な内燃機関(エンジン)の開発は、決して「設計図通りに組み立てれば、誰でも同じものが完成する」という性質のものではありませんでした。部品同士の繊細な「擦り合わせ」や、長年の経験に基づく「調整」の勘所といった暗黙知の領域に技術者が魂を込めることで、日本製品は世界最高峰の品質を生み出し、世界市場で圧倒的な差別化を図ってきたのです。
しかし、ブラウン管から液晶へ、エンジンからEVへと、製品のアーキテクチャが「擦り合わせ型」から「モジュール型」へと急激に変化したことで、この状況が変わります。規格化された部品を組み合わせるだけで一定水準以上の製品が誰でも作れるようになり、「暗黙の職人技術に依存したブラックボックス」は、事業的な競争優位性を生み出しにくくなりました。
特にソフトウェア開発の世界では、この職人気質やハイコンテクスト文化は大きな足かせとなります。ソフトウェア開発は社内外のさまざまなチームが、オープンソースを含む無数のモジュールやライブラリなどを組み合わせて構築します。構築物はOS、実行環境、フレームワークなどの上で動作します。流通コストが極めて低くコピーが容易です。
このように標準化されたエコシステムが前提であり、属人的な「職人のこだわり」がそのまま事業的な差別化要因にはなりにくいという特徴を持ちます。もちろん、美しいコードや効率的なアルゴリズムには技術的な価値があり、それらに事業的な価値が全くないわけではありません。しかし、それらは「利益を生むための差別化要因」とは分けて考える必要があります。
多重下請け構造が温存してきた「言語化の回避」
本来、ソフトウェア開発においては「擦り合わせ」の文化からいち早く脱却し、明確な仕様の言語化へと舵(かじ)を切る必要がありました。しかし、現実の日本のIT業界ではハイコンテクストな文化が長らく維持されてきました。顧客自身も言語化できていない曖昧な要件を空気を読んで理解し、対応することに付加価値を見いだしてきたからです。
その象徴と言えるのが、SIerを頂点とする多重下請け構造です。この構造の中では「よしなにやっておいて」といった曖昧なコミュニケーションが、むしろ現場を機動的に回すための強みとして機能してきました。上流工程の担当者は「要求を明示的に言語化する」プロセスを回避し、責任を分散させ、その所在を曖昧にし続けることができたのです。多重下請けの均衡状態とは、まさに「言語化しなくてもプロジェクトが何となく回る仕組み」の完成形でした。
AIとグローバル開発が組織の「ローコンテクスト化」を強烈に迫る
今、この「言語化しなくても回る環境」に安住してきた日本の開発組織に対し、2つの巨大な潮流が同時に押し寄せています。
1つ目の潮流は、AIの進化です。AI開発ツールが実用フェーズに入り、AIが自律的にコードを生成、修正する時代が到来しました。しかし、これらのAIは「明示的な仕様、制約」が与えられた環境で圧倒的な力を発揮する一方、曖昧さや「暗黙知」の処理は極めて苦手です。
現在主流の大規模言語モデル(LLM)の訓練データは英語が大半を占めるとされ、その思考のベースには、欧米圏のローコンテクストな文化が色濃く反映されています。つまりAIは「ローコンテクスト文化圏から来た同僚の一人」として捉えるべき存在であって、「空気を読んでよしなに作ってくれ」というハイコンテクストな指示は通じません。AIを正しく機能させるには、企業は業務フローや要求を明示的に言語化し、ローコンテクストな構造へと移行する必要に迫られています。
2つ目の潮流はグローバル開発です。 日本の人口減少、円安、国内市場の縮小を直視すれば、日本市場の売り上げと日本人エンジニアだけで事業を維持、スケールさせることは困難です。必然的に、世界の優秀な人材と一緒にプロダクトを作る時代へと移行しています。異なる文化や言語を持つ海外エンジニアと協働する際、「言わなくても分かるだろう」「このくらいは常識だろう」という期待は通用しません。
これら2つの潮流は決して偶然似ているのではなく、どちらも同じ根を持っており、日本企業に対して「ローコンテクスト化(暗黙知から形式知への移行と明示的な言語化)」を強烈に要求しているのです。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
関連記事
メルカリが明かす「Claude Code全社展開」「シャドーAI対策」を支える仕組み
「AIを使わない選択自体がビジネスリスク」と断言するメルカリ。同社は2026年5月、「Claude Code」「Claude Cowork」の全社展開に踏み切った。だが、ローカルファイルの操作やOSコマンドまで実行できる強力なツールの配布は、ガバナンスの課題も伴う。全社のAI活用を支える同社の「仕組み」に迫る。
「単にAIを使ったチーム」より成果を出したのは? 弥生が開発工数80%減で気付いた、AI駆動開発の分かれ道
AIが進化する一方で、実業務や組織全体への展開に難しさを感じる企業は少なくない。会計・給与ソフトウェアを提供する弥生は、顧客向け製品へのAI実装と、AIを前提とした開発プロセスの再設計を同時に進めている。中小企業の業務効率化をAIで支援する同社の戦略を、弥生の武藤 健一郎氏、今泉 竜一氏、佐々木 淳志氏に聞いた。
チーム開発で「Claude Code」を使い倒す 5つの勘所
生成AIによる開発支援が個人から組織全体へ広める取り組みにおいては、チーム全体の開発を効率化するための運用設計が求められます。「Claude Code」を使い倒し、組織の開発力を最大化するための5つの勘所を解説していきます。
なぜAI企業は社内で「ソフトウェアエンジニア」と呼ばなくなったのか 広がる「MTS」と職種の未来
AnthropicやOpenAIでは、研究者とエンジニアをまたぐ共通の社内肩書きとして「Member of Technical Staff(技術スタッフの一員)」が使われている。元CTOたちが次々とこの肩書きに転じている現象から、肩書きが専門性を証明しなくなった時代に何が価値を決めるのかを考える。
「AIコーディングブーム」が去ったUSで、エンジニアに求められる「本体の強さ」
米国MS開発の最前線では「コーディングエージェントブーム」は既に終息し、AIは日常の文房具に。AI時代に本当に求められる「人間の本体の強さ」と、思考を手放さない新たなAI活用術について、シニアソフトウェアエンジニアの牛尾剛さんに聞いた。