温故知新:ネットワークコラム

TCP/IP普及以前、すべては1万分の1だった!?

栗原 潔
テックバイザージェイピー(TVJP)

2008/9/16

ベンダによるロックイン戦略が主流だった1980年代。今はftpで簡単なファイル転送だが、当時は1年間の大規模プロジェクトとしての取り組みが必要だった

 TCP/IP普及以前の四半世紀前にトリップ

 私事ではあるが、自分がIT業界に入ってからもう四半世紀以上が過ぎている。いうまでもなく、その間の技術の進化は目覚ましい。

 例えば、新人SEだった当時の私の仕事の1つに、「ディスク・パック」の運搬があった。ディスク・パックとはちょうどカーリング競技で使う石くらいの大きさと形状の磁気ディスク媒体である。

 当時のメインフレームのディスクは、取り外して運搬可能になっていたのだ(現在でも、パソコンの内蔵ディスクを取り外し可能にして、システムごと取り換える人がいるが、まさにそのイメージである)。

【参照】 IBM 3330 data storage 上に載っているのがディスクパックのケース

 磁気ディスクが取り外し可能であったことの恩恵は、顧客のシステムを自社のマシンルームでテストして戻すなどの作業が容易にできたことだ。ディスク・パックは相当な重量(おそらく10キログラム程度)があり、タクシーで苦労して運んだのを覚えている。

 カーリング石大の磁気テープ媒体で100メガバイト

 なお、ディスク・パック1つの容量は100メガバイトであった(後に200メガバイトの改良版が登場した)。もし、タイムマシンで当時に戻って、そのときの自分に「25年後にはその1万倍の容量のディスクが手のひらに載るようになる」といったとしても、技術の進化のペースが極めて速いということを十分に認識しているエンジニアである自分でさえも絶対に信じなかっただろう。

 その一方で、思ったよりも進化が見られなかったテクノロジーも存在する。例えば、キーボードがその1つだ。私が社会人になった年は1981年だが、この年は初代IBM PCが発売された年である。

 キーボードの技術は進歩していない

 プロセッサのクロック周波数は4.77MHz、最大メモリサイズは64キロバイトというスペックだ。しかし、そのメカニカル・キーボードのタッチは素晴らしいものだった。

 いま、現物が手元にあって直接的に比べられるわけではないが、おそらく今入手できる最高レベルのキーボードと比較しても遜色(そんしょく)はないだろう。その意味では、キーボードは、ここ数十年間において進化ではなく、退化してしまったテクノロジーの1つであるかもしれない。

 他社を拒否する独自ネットワーク

 さて、前置きが長くなってしまったが、この記事で書きたいのは四半世紀で極めて大きな進化があった要素の1つだ。プロセッサの処理能力、ストレージの記憶容量、ネットワークの速度などに大きな進化があったことはいうまでもないことだが、もう1つの見逃されがちな重要な進化であるネットワークの接続性について書こう。

 まずは、1980年代におけるネットワーク・プロトコルの状況を見てみよう。

 当時は各ベンダが独自のネットワーク・プロトコルを開発し、自社製品に採用していた。各階層のプロトコルとメッセージ形式をまとめてネットワーク・アーキテクチャと呼ぶことが多かった。

 IBMのSNA(System Network Architecture)、DECのDECnet、富士通のFNA(Fujitsu Network Architecture)、日立のHNA(Hitachi Network Architecture)、日本電気のDINA(Distributed Information Network Architecture)、電電公社のDCNA(Data Communication Network Architecture)などだ。これらのネットワーク・アーキテクチャは、最下位のデータリンク層を除いては、ベンダ間の互換性がほとんどなかった。

 機能面が評価されて基幹系システムで現役の例も

 なお、これらのネットワーク・アーキテクチャには、現在も大企業の基幹系システムで利用されているものもある。

 レガシー化して移行が困難になっているということもあるが、QoSなどの機能面ではTCP/IPより優れている点も多いからだ。これらのネットワーク・アーキテクチャの問題点は機能的な面にあったのではない。各ベンダが独自仕様で設計しており、異なるベンダ間の相互接続性がほとんどないことにあったのである。

 ロックインされたデータはディスク・パックで運搬を

 当時は、いかに自社独自のネットワーク・アーキテクチャを顧客に採用させてロックインするか(他社に移行しにくくするか)が各ベンダのマーケティング戦略上の重要ポイントとなっていた。

 他社とのネットワーク接続性を向上して、囲い込みを困難にするような戦略はとうてい認められなかったのである。結局、異なるマシン(当時ではほとんどの場合、メインフレーム)間で大量のデータをやりとりするためには、磁気テープ媒体を利用するしかなかった。

 実装状況が確認できなかった仕様先行のOSI

 このような相互接続性の欠如を解決するための動きとして、1982年からOSI(Open Systems Interconnection:開放型システム間相互接続)プロトコルの策定が、ISO(国際標準化機構)を中心にして進められていた。

 OSIは、ベンダ中立なプロトコル策定を目指し、各ベンダの要望を幅広く聞き入れる必要があったため、仕様には多くのオプションが取り入れられ複雑化していった(その割には、当初はコネクションレス型の通信がサポートされていないなどの決定的な機能的な漏れもあった)。

 また、既存の業界標準アーキテクチャ(世界的に見れば、IBMのSNAであるといっていいだろう)との連続性もなかった。さらに、仕様先行で作られているため、特定の実装状況を確認できるような参照用のソースコードがあるわけではなかった。

 OSI標準を使ったファイル転送。実現に1年掛かり

 その結果、実装が困難であり、異なる実装間の相互運用性の実現も容易ではなかった。仕様の解釈がベンダごとに異なったりするし、どのオプションセットを選択するかの違いにより、接続性が確保されないこともあったからである。

 OSIが業界において注目を浴びはじめたころ、ある顧客において、異なるベンダのメインフレーム間でオンラインデータ転送を行うという案件があった。記憶が定かでない部分もあるし、そもそもあまり詳しく書いて顧客が特定されてしまうのも問題なので、ある程度抽象化して書かせていただこう。

 明らかに、どちらかのベンダのネットワーク・アーキテクチャにもう一方のベンダが合わせる方がリスクは少ない(なぜなら、すでに確実に動く実装が1つ存在するからだ)のだが、それでは一方のベンダを有利に扱うことになってしまい政治的に許されないということから、OSI標準を使ってデータ転送を行うという決定が下された。

 なお、当時、TCP/IPは存在してはいたが、あくまでも学術機関向けの
通信方式であり、ビジネスの環境では使用に耐えないと考えられていた。

 結局、両ベンダは、大掛かりなプロジェクト・チームを組み、1年程度の期間をかけて苦労してOSIのプロトコルを実装し、メインフレーム間でのファイル転送を実現した。現在であれば、異機種間のファイル転送はftpを使えば半日仕事(実際には1時間仕事だろう)である。過去において数十人月を要していた作業が1時間で済むということは、冒頭の磁気ディスクの例と同様に1万倍以上の向上があったといえるかもしれない。

 最低限の仕事をこなすGood EnoughなTCP/IPが標準に

 なお、OSIはその後普及することはなく、TCP/IPが業界標準となった点はあらためていうまでもないだろう。TCP/IPは公式の標準ではなく、機能的にも決して十分ではなかったが、バークレイ版などの参照実装が存在すること、機能的に比較的単純で実装しやすかったこと、必要にして十分な接続性を提供できたことなどにより、急速に普及した。

 「公的機関が市場原理を考慮せず開発した標準が普及することはない」「参照実装がない標準が普及することはない」「あらゆる要望を取り入れた重厚長大型の標準よりも最低限の仕事をこなすGood Enoughな標準の方が普及する」という現在では当たり前の経験則が明らかになった例だろう。

 現在では、ファイルを転送する、ウェブ画面をブラウズする、メールを送受信するなどの基本的な接続性機能においてベンダの違いを意識することは(皆無とはいえないが)ほとんどなくなった。異機種マシン間でファイル転送を行うだけでも一苦労であった過去を振り返って考えてみると、自分にはこれも実に素晴らしいことだと思えてしまうのである。

 栗原 潔
テックバイザージェイピー(TVJP)代表取締役 弁理士。技術士(情報工学)。 IT、知財、翻訳サービスを中心とした新しいタイプのリサーチ会社。 東京大学工学部卒業、米MIT計算機科学科修士課程修了。
日本アイビーエム、ガートナージャパンを経て2005年6月より独立。 ITmedia Alternative BLOGにて 「テクノロジー時評Ver2」を執筆。
「Master of IP Network総合インデックス」


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