Watsonはスマートフォン/ウェアラブル端末で収集したユーザーデータの活用で医療ITを革新できるのか:ヘルスケアだけで終わらせない医療IT(4)(3/3 ページ)
「IBM Watson」は、スマートフォンやウェアラブル端末などのデバイスから収集したデータと、電子カルテや遺伝子情報などの膨大な医療情報とを有機的に結び付けて医療現場の活動を支援できる認知システムとして注目を集めている。本稿では、2015年5月19日、20日に東京で開催された「IBM XCITE SPRING 2015」での講演内容を基に、IBM Watsonがどのように進化し、医療やライフサイエンス分野で活用されようとしているのかを紹介する。
医療分野におけるWatsonの活用事例
実際に、医療分野において、Watsonはどのように活用され始めているのか。ここでは、診察や治療、臨床試験、医学教育、創薬研究などを支援する事例を紹介しよう。
がん治療支援
最初は、がん(肺がん、乳がん、直腸がん、結腸がんの4種)の治療を支援するシステムの構築に取り組んだMemorial Sloan Kettering Cancer Center(メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター、MSKCC)の事例である。
MSKCCとウェルポイント社、IBMの3社は2013年2月、Watsonを使って、数十年のがん治療の歴史に相当する150万件のがん治療履歴のデータ(医療記録や患者の経過情報など)をわずか数秒で厳密に調べ、根拠に基づく治療の選択肢を医師に提供するがん治療アドバイザー「Oncology Advisor」技術を発表した。
3社は、1年間にわたって、60万件以上の医学研究結果と、42の医学専門誌の200万ページに上るテキストや臨床試験データをWatsonに学習させるプロジェクトに取り組み、がん治療アドバイザーシステムの開発を進めていた。
同システムでは、まず医師が診察する患者の電子カルテを作成し、Watsonに対して、診断や検査、治療に必要な情報を問い合わせる。するとWatsonは、電子カルテ情報を処理し、学習した大量の医療情報から重要な情報を抽出し、検査や治療に関する選択肢を医師に推薦する。
その際に、重要になるのは、正しい診断や検査選択を行うためのヒントをきちんと提示できること。また、検査や診断を推薦した根拠やその出典をきちんと提示できることである。Watsonの質問応答技術を使用することによって、こうした処理が実現されている。
開発されたがん治療アドバイザー技術は、テキサス州立大学 MDアンダーソンがんセンターでは白血病治療の支援に、New York Genome Center(ニューヨーク・ゲノム・センター、NYGC)では脳腫瘍の一種である膠芽腫(こうがしゅ)治療の支援に応用されている。また、タイのバムルンラート国際病院においても、4大陸16カ国の照会オフィスでのケース評価の質の向上に活用されることになっている。
臨床試験の被験者マッチング支援
米国ミネソタ州のメイヨー・クリニックとIBMは2014年9月、Watsonを使って、臨床試験の参加条件に最適な被験者を見つけ出す「Watson for Clinical Trial Matching」の開発プロジェクトを、2015年早期の運用を目標に開始すると発表している。
臨床試験における被験者のマッチングは、さまざまな条件をクリアする必要があり、患者の数も限られていることから、被験者がなかなか集まらず失敗するケースも少なくない。
メイヨー・クリニックでは常に8000人以上の被験者を必要とする臨床試験が実施されており、被験者マッチングの自動化は重要な課題になっていたという。
医学教育支援
米国オハイオ州のクリーブランド・クリニックは2012年から、医学教育にWatsonの質問応答技術を活用する取り組みを行っている。
医学生は、Watsonをベースとした共同型の学習教育ツールを使用することによって、医療教育活動の中で患者の症例を調べ、分析し、仮説を立て、文献と最新の医学雑誌から有効な根拠を見つけ出して組み合わせて、診断と治療の選択肢を特定する医療プロセスを学ぶことが可能になる。
一方、医学生が、Watsonが示す根拠を判断し、解答を分析することによって、Watsonの側も、医療分野に対応する言語解析能力と解析能力を向上させていくことになる。こうした教育ツールと連携したWatsonの利用を通じて、医学生とWatsonは、お互いの強みと専門知識を生かしながら、共同作業による分析能力を学び、かつ高めていくことができる。
またこのコラボレーションでは、電子カルテ/EMR(Electronic Medical Record)の内容に対する深い意味理解に基づくカルテ処理にWatsonを利用することにも重点的に取り組むという。
創薬研究支援
創薬研究の分野では、必ずしも明確な正解が存在しない可能性のある薬剤や処方などを調べたい場合にも、ビッグデータから関連性を発見して妥当な答えを導き出す必要がある。
IBMでは、研究チームのこうした発見を支援するクラウドベースのサービスとして「Watson Discovery Advisor」(2014年8月発表)を提供している。同サービスを利用することにより、研究チームは、仮説をテストして妥当な結論を導き出す作業を大幅に効率化することができる。
活用事例としては、仏国創薬会社サノフィがWatsonを使って、既存薬の別の適応症最目的化の発見を加速する方法を研究している。また、Johnson & Johnsonは、IBMのWatson Discovery Advisorチームと提携し、Watsonが薬物やその他の治療法の開発と評価に使用された臨床試験の結果を詳述する科学論文を読んで理解できるように、Watsonに教え込む取り組みを進めている。
米国テキサス州のベイラー医科大学では、Watsonベースの「Baylor Knowledge Integration Toolkit(KnIT)」を提供し、7万件もの学術論文から特定のタンパク質に関するデータを抽出して仮説を構築し、科学者が検証できるようにしている。
実際に同大学では、がんを抑制するたんぱく質「p53」の活性化/不活性化を導くたんぱく質を数週間で6つも発見している。過去30年間の実績では、科学者が同様のたんぱく質を1つ発見するのに平均1年かかっていたという。
ゲノム医療支援
米国のNYGCは、Watsonの技術を使って、がん専門医が患者ごとに個別ケアを提供できるように支援するシステム「Genomic Analysis」の開発に取り組んでいる(2014年3月発表)。
同センターでは、最初の取り組みとして、脳腫瘍の一種である膠芽腫の患者に個別化された治療計画の作成を支援するシステムを評価している。これは、臨床医が、患者に対してDNAに基づいた治療のオプションを提示するための複雑なプロセスをより迅速化し、ゲノム解読などの医療データからパターンを特定するなど、臨床医が患者に有効なゲノム治療を提供できる知見を獲得することを目的としている。
下図は、実際に膠芽腫の患者の遺伝子をシーケンシング(遺伝子配列を可視化)した結果を示したものだ。円の外側には染色体の番号、内側には変異が見つかった患者の遺伝子が示されている。これにより、EGFR(がん細胞が増殖するためのスイッチの役割を果たすタンパク質)などのタンパク質が、患者のどの遺伝子に対して影響を及ぼしているのかを検証することができる。
“ヒト”の脳のようなシステムを目指す
ここまで見てきたように、ウェアラブル端末で収集される体温や脈拍などのシグナル情報は、Watsonの技術を使って、医学文献データや電子カルテ、ゲノムデータなど膨大な医療情報と有機的に連携させることによって、ヘルスケア領域での活用だけにとどまらず、一般の診療からゲノム治療まで多様で高度な医療の領域に活用できるようになる。
Watsonの今後の方向性について、武田氏は「テキスト情報を理解して学習するWatsonの能力と、血圧や血糖値などローレベルのシグナル情報を処理するウェアラブル端末/IoTハードウエアを組み合わせることにより、論理的な思考を司る左脳と直感的な思考を司る右脳を持つ“ヒト”の脳のように柔軟なシステムを実現していくことが今後のWatsonの目標になる」と強調し、講演の最後を締めくくった。
次回は、オープンソースの電子カルテ/EHRシステムOpenDolphinについて
今回は、Watsonを例に、スマートフォン/ウェアラブル端末で集めたユーザーデータをどのようにヘルスケア/医療の現場に生かすのかを見てきたが、いかがだっただろうか。「医療ビッグデータ」といった言葉もあるぐらいヘルスケア/医療におけるデータ活用は重要視されているが、その活用方法を具体的にイメージできる講演内容だったと思う。
一方で今回紹介した事例やソリューションは全て日本国外のものだ。武田氏が述べていたように、日本での活用はまだまだ問題が多い。特集の次回は、日本に目を向け、オープンソースの電子カルテ/EHR(Electric Health Record)システム「OpenDolphin」を取り上げたい。
特集:ヘルスケアだけで終わらせない医療IT
IoTやウェアラブル機器の普及で広まりつつあるヘルスケアIT。しかし、そこで集まる生態データは電子カルテや医療で生かされていないのが、現状だ。本特集ではヘルスケア/医療ITベンダーへのインタビューやイベントリポートなどから、個人のヘルスケアだけにとどまらない、医療に貢献できるヘルスケアITの形を探る。
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