書籍、アプリ、インターネット――両親が私にくれたもの:Go AbekawaのGo Global!〜Amy Dang編(前)(2/3 ページ)
メコン川の支流近くで育った女の子は、PCと出会い、プログラミングに没頭し、海外と共同研究を行うデータサイエンティストになった。
とにかく至る所をクリックしてみた
阿部川 中学生のころの夢は何でしたか。
ダンさん 13歳のころPCと出会い、これで仕事ができればいいなあと思っていました。中国産PCの「TCL」にWindowsをインストールして使っていました。PCは当時確か1000ドルぐらいしてとても高価だったので、持っているのはクラスでも2人か3人ぐらいでした。私が育った村は、農業中心でとても貧しかったので……。
阿部川 ご両親は一所懸命働いて買ってくれたのですね。
ダンさん いえいえ、うちでは買えませんでした。私が中学2年生のときにクラスで2番目の成績を取ったので、ホーチミン市に住んでいる祖母の姉がご褒美として買ってくれたのです。
阿部川 良かったですね! PCを使ってどんなことをしましたか。
ダンさん 家族の誰もPCを使ったことがなかったので、1人で、1日中PCと格闘していました。当時は英語があまりできなかったので、とにかく至る所をクリックしてみて、それでどうなるか試行錯誤を繰り返しました。基本的にバンドルされているソフトウェアを片っぱしから使っていました。
そうこうするうちにサウンドファイルを全部消してしまって(笑)、何も音が出なくなりました。両親がPCをわざわざホーチミン市まで持って行ってPCショップの人に頼んでくれて、またようやく音が出るようになりました。
その後、両親が英字新聞のソフトウェアを買ってくれて、PCで新聞が読めるようになり、そこからPCに関するヒント集や事例などを探して読むようになりました。当時はまだインターネットの料金が非常に高くて、私のPCはスタンドアロンでした。ですからソフトウェアを追加するときは、PCショップにUSBを持参してダウンロードしてもらい、そこから自分のPCにインストールしていました。
高校2年生のころ、ようやくネットの接続料金が安くなったので、ADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line)のネット環境を両親が契約してくれました。それでやっと、いろいろな人とつながったり、ゲームしたりできるようになりました。
阿部川 PCが毎日の暮らしの中に入ってきても、やはり数学や科学が得意でしたか。
ダンさん はい。むしろ科学やテクノロジーへの興味がぐっと強くなりました。もちろん数学も得意でした。
阿部川 大学に入る前に、PCの授業はあったのですか。
ダンさん 高校2年と3年のときに、毎週45分間PCの授業がありましたが、とても基礎的な内容でした。多くの生徒は家で問題を解いてきて、それを学校でExcelやWordを使って書いていました。
私は高校2年生のときに、無料のサイトやフォーラムでプログラミングを勉強し始めました。学校ではPascalを学びましたが、自分では、C、C++、Python、Scala、Javaなどを学びました。現在は、データプロセシングに向いている、PythonとScalaを1番使っています。
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