私はまだ18歳で、それまでの人生の全てはミャンマーに置いてきた:Go AbekawaのGo Global!〜テッテさん from ミャンマー(前)(2/2 ページ)
グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はMicoworksでマネジャー兼ブリッジエンジニアとして活躍するHtet Htet Lwin Thein(テッテ・ルウィン・ティン)さんにお話を伺う。内向的でもないけど外交的でもない、勉強はしていたけどあくまで適度に。そんな控えめな表現をするテッテさんが、ITの世界でプロフェッショナルを目指すようになったきっかけとは。
「私がなりたいものは、私が選べばいいんだ」
阿部川 大学3年生のときに千葉大学に編入されていますね。
テッテさん はい、日本の大学に編入できる文科省のプログラムを利用しました。大学教授の推薦が必要で、なかなかの「狭き門」でしたが、なんとか合格できました。
阿部川 専攻や専門は何になるのですか。
テッテさん 奨学生として合格すると、1年間の研究テーマに関する提案書を書いて、プログラムに参加している日本の大学に送らなければなりません。私は3つの大学に提出し、千葉大学が私の研究テーマを採択してくれたのです。千葉大学は優れた教育で知られているし、歴史もあるし、東京にも近い、ということで採用されたときにうれしかったことを覚えています。
阿部川 千葉大学での勉強や生活はどうでしたか。
テッテさん 日本とミャンマーは、言語はもちろん文化などが大きく違います。私はまだ18歳で、それまでの人生の全てはミヤンマーに置いてきましたから、カルチャーショックもありました。しかし大学は、そのような私に対しても全てがオープンで、さまざまな機会を自由に選べました。文字通り、私がなりたいものは、私が選べばいいのだと思えるようになり、マインドセットが変わってきました。
日本にいると想像すら難しいですが、自分の国でクーデターが起こっている状況で、将来を考えることはもちろん、海外で学び続けるのは非常に強いストレスだと思います。テッテさんは明るく、そういった苦悩を感じさせないようにお話しされていましたが、さまざまな葛藤があったのだと推測します。それでもチャレンジを忘れないその姿勢には頭が下がります。
なぜソフトウェアエンジニアを目指したかというと、お話ししたように、ITに関する分野は得意ではなかったのですが、であればなおさら、その分野のプロフェッショナルになりたいと思ったのです。
阿部川 テッテさんの物事に挑む姿勢が素晴らしいですね。できないものだからやる、不得意だから制覇する、ですね。
テッテさん 何でもチャレンジするのが好きなのかもしれません。
チャレンジのさなかに起きた祖国のクーデター
阿部川 千葉大学でのプログラムを修了し、ミャンマーに戻ってヤンゴン外国語大学も卒業します。その後のことを教えてください。
テッテさん ミャンマーでも仕事のあっせんはあったのですが、最終的に日本に戻ることにし、いわゆる大手のSIer(システムインテグレーター)で3年仕事をしました。
阿部川 数学もITも苦手だったのに、SIerに就職したのですね。そしてシステムエンジニアに。全てが新しいことだらけですよね。
テッテさん 最初は文字通り毎日泣いていました……。仕事場の全てのことで傷つきました。でもそれがあったからこそ今日があるともいえます。
阿部川 大変な苦労をされたのですね。3年働いた後、転職されます。
テッテさん はい。当時からブリッジエンジニアリングに興味があり、ITの分野で仕事をしてきた経験に加えて、英語や他の言語でのコミュニケーションができるという、このスキルは人にできないのではないかと思いました。
そうしたら、たまたま沖縄にある日本のオフショア会社のブリッジエンジニアのポジションに空きがあるのを見つけました。台湾とミャンマーにも拠点があるので、試してみる価値があるのではないかとチャレンジしました。プロジェクトに参加しながらいろいろなことを学び、8カ月間沖縄に住みました。
阿部川 自身の強みを生かした素晴らしい仕事ですね。その後、ミャンマーに転勤して2年間働いた後、Micoworksに転職されます。これはなぜでしょうか。
テッテさん 正直に言うと、変わりたかったわけではありません。端的にいえば国と企業の事情です。ミャンマーに戻った途端、コロナ禍が始まり、その上、クーデター※が起こりました。
※「2021年2月1日、ミャンマー国軍がアウン・サン・スー・チー国家最高顧問、ウィン・ミン大統領を含む国民民主連盟政権幹部を拘束。大統領代行(国軍出身の副大統領)は緊急事態宣言を発表し、ミン・アウン・フライン国軍司令官が行政・司法・立法の全権を掌握した」(外務省のWebサイトから引用)
沖縄の会社にいた2年間で2つのプロジェクトが動いていたのですが、クーデターの影響でそれらが継続できなくなりました。仕方なく、私はチームのトレーニングを目的としたプロジェクトを立ち上げ、日本語を教えるなどプロジェクト運営のようなものをしていました。当時の状況ではそれが精いっぱいでしたが、私には満足できませんでした。もっと自分のスキルを上達させたいと思っていました。それで転職を決めたのです。
幼いころから「不得意なものがあると得意にしたくなる」という珍しい癖を持つテッテさん。数学やPCに苦手意識を感じていた少女は、その反動でエンジニアの得意領域を増やし、やがてブリッジエンジニアへの道を歩み始める。後半はMicoworksでの仕事と日本の大学院に進んだ理由と、日本のエンジニアに伝えたいことについて。
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