検索
連載

父を思い医者を目指し、好きを求め車業界へ しかし国の経済発展を願いIT業界に飛び込んだGo AbekawaのGo Global!〜フィトリさんFromマレーシア(前)(1/2 ページ)

グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はWebサイト保守などに携わるシステムエンジニアのHamel Fitri(ハマル・フィトリ)さんにお話を伺う。勉強よりも外で遊ぶのが大好き。自然とともに過ごした少年は、やがて「自分の国に貢献したい」と考えるようになっていった。

Share
Tweet
LINE
Hatena

 国境を越えて活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回はシステムエンジニアのHamel Fitri(ハマル・フィトリ)さんにお話を伺った。家族の病気をきっかけに医者を目指していたフィトリさんが、エンジニアを志望するようになった理由とは。

 聞き手は、AppleやDisneyなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。

友達と川や森で遊んだり釣りしたりする毎日

阿部川 “Go”久広(以降、阿部川) Hamel Fitri(ハマル・フィトリ)さんですね。どうお呼びすればいいですか。

Hamel Fitri(ハマル・フィトリ、以下、フィトリさん) フィトリと呼んでください。

阿部川 分かりましたフィトリさん。ご出身はマレーシアですね。

フィトリさん はい。マレーシア上部、タイの近くのクランタン州で生まれ育ちました。川や森など、自然が多い地域です。私は長男で母が心配性だったので、高校を卒業するまで実家にいました。

阿部川 自然が多いということは、子ども時代は外で遊んでいることが多かったのでしょうね。

フィトリさん そうですね。学校の帰りに友達と川や森に行って遊んだり、釣りをしたりするアクティブな子どもでした。勉強は学校でしかしていませんでした(笑)。

画像
インタビュー中のフィトリさん

阿部川 いや、それで十分ですよ。学校で勉強して、学校が終わると自然の中で遊ぶ、そんなお子さんだったんですね、スポーツはやりましたか。

フィトリさん サッカーが得意でした。ストライカーだったのですよ。空いている場所があれば、どこでもやりました。ボールがあればどこでもできますし、6人もいれば十分試合になりますからね。他にはバドミントンも得意です。マレーシアはバドミントンがとても強くて、みんなバドミントンをやっています。

阿部川 学校行って、サッカーをやって、自然の中で遊んで。お家に帰ってからは食べて寝るだけですかね。良い子ども時代です。得意な科目はありましたか?

フィトリさん 数学と生物学が、いつもクラスでトップでした。なぜかは分からないんですけど、自然と分かりやすい科目でした。どちらかといえば数学が好きなのではなく「問題の解決」が好きだったのだと思います。

阿部川 「問題があって、その問題に対して答えを探す」ということが好きなのですね。


編集中村
編集 中村

何が問題なのかを明確にして解決策を提示し、実行する。まさしくエンジニアに必要な能力ですね。


阿部川 ちなみに最初にPCに触ったのは学校ですか。

フィトリさん 確か8歳くらい。学校のITの授業で、「ペイント」を使って家を作ったことを覚えています。

阿部川 いいですね。そのころからエンジニアになろうと思っていましたか。

フィトリさん いいえ。エンジニアではなく医者になりたいと思っていました。父が心臓の病気で亡くなったので、小さなころから医者になりたいという気持ちが強くて。だから、高校生になったら生物学が1番好きな科目になりました。ただ、高校を卒業する前に、進路を変えなければならなくなりました。もともと「血」があまり得意じゃなくて。高校の生物学のクラスの実習でカエルを解剖したときにどうしても血が無理で、このままではダメだと考えるようになりました。

阿部川 医者を諦めるとして、なぜエンジニアを志望したのですか。

フィトリさん 先生と進路について相談し、いろいろな話を聞きました。自分が何をしたいのか考えたとき、やはり私は自分の国が大好きで、自分の国に経済貢献したいという気持ちが強いことに気付きました。その観点で調べたら、エンジアになることでマレーシアの経済に貢献できることが分かったのです。

縁がつながって入学を決めたクアラルンプール大学

阿部川 エンジニアになればマレーシアに貢献できると。「だったらクアラルンプール大学に行こう」となったわけですか。

画像
阿部川 “Go”久広

フィトリさん クアラルンプール大学を選んだのも運命的なものだったんです。私はもともと車、特に電気自動車に興味がありました。そこで車のエンジニアになろうと考えていました。

 また日本にも興味があって、いつか来日したいとも考えていました。そんな中でいろいろ調べていると、マレーシアの元首相マハティール氏が掲げた「ルックイーストポリシー」(日本や韓国の成功の“コツ”を学び、マレーシアの発展につなげようという取り組み)を知りました。その取り組みの中には日本への留学支援制度があり、クアラルンプール大学もそれに協力しています。

 私は車が好きで、エンジニアになりたかった。そしてクアラルンプール大学のプログラムに参加すれば日本に行く可能性がある。というような流れでクアラルンプール大学に決めたのです。

阿部川 いろいろなことがつながったわけですね。でも、クアラルンプール大学に合格するのは大変だったのではないですか。

フィトリさん そうですね。クアラルンプール大学には、MJHEP(Malaysia Japan Higher Education Program)というプログラムがあります。3年間はマレーシアの大学で勉強して、残りの2年は日本の大学で勉強するというものです。それにも何となく合格しました。

阿部川 いやいや、何となくでは合格できないですよ。最初の3年はマレーシアで勉強したのですね。クアラルンプールに出てきたのはこの時が初めてですか?

フィトリさん はい、クアラルンプールに来たのは初めてです。大都会でびっくりしました。実家の村は木や川が多いのですが、クアラルンプールは建物ばかりで、雰囲気が全然違います。

阿部川 クアラルンプールは大都会ですものね。大学時代は一人暮らしだったのですか?

フィトリさん いいえ、学生寮に住んでいたので友達がいっぱいいました。フットサルやバドミントンなどのスポーツもよくやりました。

画像
フットサルの仲間たち

阿部川 友達と一緒に住んでいたら寂しくないですね。勉強とスポーツざんまいといったところでしょうか。ところで、大学の勉強はどうでしたか。

フィトリさん 日本語も勉強しなければならなかったのですが、それが全科目の中で一番つらかったですね(笑)。私が勉強した科目は全て日本語で授業が行われて、先生も日本人です。

阿部川 それは大変だ。日本語が分からなかったら全然分からないわけですね。

フィトリさん そうなんです。だから必死で勉強しました、漢字とか文法とか。

阿部川 そのかいあって、今は日本語完璧じゃないですか。頑張ったおかげですね。

       | 次のページへ

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

ページトップに戻る