取った資格は俺のもの、もらったお金も俺のもの:「訴えてやる!」の前に読む IT訴訟 徹底解説(98)(3/3 ページ)
会社から資格取得支援金をもらって、CCNPとOracle Masterを取得したエンジニア。退職時に支援金の返却を求められたが、応じるべきなのだろうか――。
社員の退職を金で縛るべからず
本事案は下級審(地方裁判所)の判決であり、さまざまな事情もあることから、資格取得の支援金と退職の関係が、いつでもこのように判断されるとまでは断定できない。それでも、労働基準法を基に理路整然と判断したこの判決が他に与える影響は大きいだろう。
資格取得のために支払った支援金を退職時に返還させることは、「労働者の自由意思を不当に拘束し、労働関係の継続を強要するもの」であり、許されないようだ。こうした取り決めが、労働契約や雇用契約、あるいは企業と従業員間の合意事項に定められている場合、それらが無効となる可能性が高いと本判決は示している。
さて、従業員はこの判決をどう捉えるべきだろうか。即座に改めてほしいと企業に申し入れることまではしないかもしれないが、組合などによる団体交渉の一論点とはなるかもしれないし、個人では、転職や就職で会社を選ぶ際の一つの判断基準にはなるかもしれない。
一方の企業側は、本判決をきちんと受け止めるべきだろう。雇用契約や諸規則を作成する立場の人間が、この問題をどのように考えてきたのかは分からないが、同じような制度を設けており、是正もしないのであれば、その企業は順法意識に欠け、従業員の権利を阻害する組織ということになるし、今後は採用活動にも影響するかもしれない。
会社が出したお金で成長した従業員がすぐに退職してしまうのは、全く合理的な費用支出ではないし、あまりに不義理だとの考えも分かる。しかし、法は法だし(労働基準法は強行法規なので、これに反する雇用契約などは無効になる)、このような雇用契約や社内規則を設けているのであれば、再考された方がいい。
乱暴な言い方かもしれないが、資格取得を支援した社員が退職するなら、資格を持った社員を中途採用することで、この部分に関する補填(ほてん)はできると考えた方が労働流動性の高まる昨今の状況には合致しているし、そうした企業の方が労働者から見れば魅力的なのではないか。
確かに、こうした考え方も場合によりけりかとは思う。例えば国家公務員は国のお金で海外の大学院などへ留学することがあり、その場合は帰国後数年間、もし退職すれば留学費用の返還が求められる期間が設定される。これは留学の原資が税金であることを考えれば当然のことと思える。
企業においても、単なる資格取得ではなく多額の費用をかけた留学の場合は、労働基準法の適用にも柔軟性が求められ、さすがに一定期間は会社のために働くようにしないと、企業の社員育成意欲が萎縮し、結果として日本の企業や経済に負の影響をもたらすことも想定される。こうした観点も含めて考えれば、全てにおいて本判決と同じような判断が当然に下されるとまでは言い切れないだろうし、またそうすべきでもないとも考える。
とはいえ、この判決はこの判決として企業に与えるインパクトは大きいだろう。企業は、育成投資が一定の割合で損失となることを甘受する代わりに、社会全体の労働市場流動性が高まることによって、タイムリーな採用が促進されるというマクロ的なメリットがあることも認識するべきだ。そしてこれからは、社会の変容に対応した育成支援の在り方を考えることが求められていると考える。
細川義洋
ITプロセスコンサルタント。元・政府CIO補佐官、東京地方裁判所民事調停委員・IT専門委員、東京高等裁判所IT専門委員
NECソフト(現NECソリューションイノベータ)にて金融機関の勘定系システム開発など多くのITプロジェクトに携わる。その後、日本アイ・ビー・エムにて、システム開発・運用の品質向上を中心に、多くのITベンダーと発注者企業に対するプロセス改善とプロジェクトマネジメントのコンサルティング業務を担当。
独立後は、プロセス改善やIT紛争の防止に向けたコンサルティングを行う一方、ITトラブルが法的紛争となった事件の和解調停や裁判の補助を担当する。これまでかかわったプロジェクトは70以上。調停委員時代、トラブルを裁判に発展させず解決に導いた確率は9割を超える。システム開発に潜む地雷を知り尽くした「トラブル解決請負人」。
2016年より政府CIO補佐官に抜てきされ、政府系機関システムのアドバイザー業務に携わった
個人サイト:ITプロセス改善と紛争解決
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