転職するので顧客情報をLINEしてくれ、上司命令だ:「訴えてやる!」の前に読む IT訴訟 徹底解説(134)(2/2 ページ)
転職に際し、顧客の名刺情報、在庫情報、管理サイトのログインIDとパスワードなどを部下に送付させた元営業部長。企業は当然、不正競争防止法違反や秘密保持義務違反で訴えた。裁判の行方は――。
それは、営業秘密と見なされるのか?
東京地方裁判所 令和2年10月28日判決より(つづき)
不正競争防止法2条6項の「秘密として管理されている」とは、情報の種類、性質、管理の方法・態様、情報を保有する事業者と情報にアクセスした者との具体的な関係などの諸般の事情に照らし、客観的に見て、情報にアクセスした者において当該情報が秘密情報であることを認識し得る程度に管理されていることを要するものと解される。
(中略)
本件名刺情報にはパスワードなどのアクセス制限は設定されておらず、原告の営業担当者であれば誰でも閲覧することができたことについては、当事者間に争いがない。
(中略)
これに自由にアクセスし、営業に使用することのできた原告の従業員などが本件名刺情報を営業秘密と認識していたとは考え難い。
(中略)
本件在庫情報が一定の有用性や非公知性を有するとしても、同情報には何らのアクセス制限も設定されていないことに照らすと、原告の従業員などが同情報を営業秘密と認識していたとは考え難い。
(中略)
原告の就業規則などには秘密保持義務の対象となる情報がいかなるものであるかについて具体的に記載されておらず、同就業規則などに接した原告の従業員などが、本件名刺情報が原告の営業秘密であると認識し得たとも認められない。
裁判所はこのように述べて、原告企業の請求4000万円を全て棄却した。
アクセスできる人間が「秘密情報」であると認識し得るかどうか
個人的には「かなり予想と違った」というのが正直なところだ。
ただ確かに、情報が営業秘密として認められるためには、しかるべき管理下に置くことは必要であり、かつ、それが周知徹底されていなければならない、という論は一定の妥当性はある。
PCを開けば見られる情報であれば、公開されているものであると認識され、持ち出しても問題ないと思われることもあるだろう。顧客情報や在庫情報は、常識的に考えれば制約されるべきものであるとの考えもあろうが、それは主観の問題であり、明確な線引きにはならない。客観的に見て「誰もが」「これは持ち出しのできない情報である」と認識できる事実が必要であり、本件は、その旨の周知徹底不足だったということだろう。
情報は、しかるべき場所に格納して、アクセス制限や暗号化、ログの取得などを必要に応じて行って管理されるべきだが、これをアクセス可能な人間にしっかりと周知することも併せて求められるということだ。
私が働いている政府でも、やりとりされる書面やメールなどの電子文書に、必ず機密性が記されている。「機密性1なら、公開しても構わない」「機密性2なら、公開が制限され」「機密性3なら〜」……という具合だ。機密性の定義については、毎年研修で職員に徹底される(政府の場合は「営業」秘密ではないが)。
この程度であれば、民間企業でも実施できる。実施している企業も多数あろう。本件における名刺情報、在庫情報についても、それらができていたなら結果は逆だったかもしれない。
加えて言うなら、本裁判では、「就業規則の秘密保持条項も、これらの情報が営業秘密であることの根拠にはならない」と判断された。従業員であれば企業の秘密は守らなければならない。しかし、その秘密が何であるのかを特定できなければ、こうした条項も空文になってしまうということだ。
情報は有体物とは異なり、それを守るための施策を積極的に行い、周知しなければ守ってもらえない。ある意味、デフォルト的には公開され、誰にでも取得され得る性質のものであるという認識を持っておくことは、より安全なシステムのセキュリティ要件や運用設計、業務設計、各種規則やガイド作成の際に有用ではないだろうか。
細川義洋
ITプロセスコンサルタント。元・政府CIO補佐官、東京地方裁判所民事調停委員・IT専門委員、東京高等裁判所IT専門委員
NECソフト(現NECソリューションイノベータ)にて金融機関の勘定系システム開発など多くのITプロジェクトに携わる。その後、日本アイ・ビー・エムにて、システム開発・運用の品質向上を中心に、多くのITベンダーと発注者企業に対するプロセス改善とプロジェクトマネジメントのコンサルティング業務を担当。
独立後は、プロセス改善やIT紛争の防止に向けたコンサルティングを行う一方、ITトラブルが法的紛争となった事件の和解調停や裁判の補助を担当する。これまでかかわったプロジェクトは70以上。調停委員時代、トラブルを裁判に発展させず解決に導いた確率は9割を超える。システム開発に潜む地雷を知り尽くした「トラブル解決請負人」。
2016年より政府CIO補佐官に抜てきされ、政府系機関システムのアドバイザー業務に携わった
個人サイト:CNI IT アドバイザリ
書籍紹介
本連載が書籍になりました!
細川義洋著 技術評論社 2420円(税込み)
進化を続けるIT技術とは裏腹に、今も絶えず起こるシステム開発の失敗。その責を巡る争いが裁判所へ持ち込まれることも珍しくない。どうすればトラブルを回避し、プロジェクトを成功に導けるのか? IT訴訟のプロが判例から易しく読み解き、さまざまな知識、注意点、工夫を解説する。
成功するシステム開発は裁判に学べ!〜契約・要件定義・検収・下請け・著作権・情報漏えいで失敗しないためのハンドブック
細川義洋著 技術評論社 2138円(税込み)
本連載、待望の書籍化。IT訴訟の専門家が難しい判例を分かりやすく読み解き、契約、要件定義、検収から、下請け、著作権、情報漏えいまで、トラブルのポイントやプロジェクト成功への実践ノウハウを丁寧に解説する。
細川義洋氏、著書
エンジニアじゃない人が欲しいシステムを手に入れるためにすべきこと
細川義洋著 ソシム 2420円(税込み)
細川義洋著 ダイヤモンド社 2138円(税込み)
プロジェクトの失敗はだれのせい? 紛争解決特別法務室“トッポ―"中林麻衣の事件簿
細川義洋著 技術評論社 1814円(税込み)
「IT専門調停委員」が教える モメないプロジェクト管理77の鉄則
細川義洋著 日本実業出版社 2160円(税込み)
細川義洋著 日本実業出版社 2160円(税込み)
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
関連記事
顧客情報は秘密情報なんですか?
退職した従業員が、在職中に取得した顧客情報を使って営業活動をした。企業は秘密情報の不正取得だと裁判を起こし、元従業員は「そんなん、秘密でも何でもありゃしませんわ」と反論した。正義はどちらにあるのか――?
わが社のソフトウェアとそっくりなものを作ったから、あなたは泥棒です
字幕制作ソフトウェア開発プロジェクトに従事していた外注エンジニアが、他社でも同じような機能のソフトウェアを開発した。営業秘密の窃盗に当たる事案だ! けしからん! 訴えてやる!
どんなにアイデアが秀逸でも、プログラムが平凡なら著作物とはいえないですね
持ち出したPCから独自のアイデアが詰まったソフトウェアを盗み、競合媒体を発刊した競馬新聞発行人。もちろん有罪です、よ……ね……?
ユーザーの「無知」は罪なのか?――IT訴訟解説 ベンダーvs.ユーザー企業 死闘編
ユーザー企業から提供されたデータに多数の不整合があり、システムの納期が大幅に遅れた。遅延の原因はベンダー、ユーザー企業のどちらにあるのか――。人気過去連載を電子書籍化して無料ダウンロード提供する@IT eBookシリーズ。第124弾は「IT訴訟解説」のパート6をお贈りする
全ベンダーが泣いた!――改正民法のIT業界への影響を徹底解説
人気過去連載を電子書籍化して無料ダウンロード提供する@IT eBookシリーズ。「IT訴訟解説」のパート4は、120年ぶりの改正民法がIT業界にどのような影響を与えるのかを、徹底的に、徹底的に、徹底的に解説する
真夏のホラー、召し上がれ――全エンジニアが震え上がる阿鼻叫喚の生き地獄 IT訴訟解説連載、初のebook化
人気過去連載を電子書籍化して無料ダウンロード提供する@IT eBookシリーズ。第55弾は@ITイチの人気連載「IT訴訟 徹底解説」です
これは、もう「無理ゲー」じゃない?――IT訴訟解説ebook、好評にお応えして早くもパート2
人気過去連載を電子書籍化して無料ダウンロード提供する@IT eBookシリーズ。第59弾はみんな大好き「IT訴訟解説」のパート2です
IT訴訟例で学ぶベンダー残酷物語の実態と回避策
人気過去連載を電子書籍化して無料ダウンロード提供する@IT eBookシリーズ。「IT訴訟解説」のパート3は、ベンダーいじめ系特盛です

