固いイメージのある製造業でありながら、アジャイル開発の導入に成功した本田技研工業。自由な風土があるから導入できたのだろうとうらやましがられることも多いそうだが、実はさまざまな失敗と摩擦を乗り越えて今があるという。
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本田技研工業のマネジャー松本芳宏氏と、同じく本田技研工業でスクラムマスターを務める船戸康弘氏は2019年7月に開催された「Agile Japan 2019」で「ユーザーと共創する 本当に欲しかったサービス〜製造業がアジャイルを取り入れた事例〜」と題するセッションを通じて、小さく試し、失敗しながら改善に取り組み、現場の役に立つITを、アジャイルを通じて実現した例を紹介した。
「『ホンダさんは自由に新しいことができてうらやましい。うちみたいな固い会社じゃ、とても無理です』といわれることがあるが、現実にはいろんな衝突を経て新しいことに挑戦している」と松本氏は話す。
松本氏らは生産本部の下で、情報システムの運用に当たるIT部門とは別の立場でデジタル化に取り組んでいる。ダッシュボードによる「業務の見える化」の実現やIoT(モノのインターネット)センサーを活用したデータ収集など「現場の困り事、悩み事解決に役立つ仕組み作り」が主なタスクだ。
自動車という製品は数千人、数万人もの関係者が、5〜6年単位の時間をかけて作り上げている。それはささいなミスであっても人命に関わる事案につながるためだ。
「失敗が許されず、何よりも慎重さが求められる」(船戸氏)
松本氏のチームはこうした考え方の中で役立つ仕組み作りを進めていた。だが、その結果できたものは「現場で使われないものになってしまった」と船戸氏は言う。その理由は、ユーザーが「欲しい」と言ったままの内容で作り込んでしまったことだ。
現場では、良く言えば役割が明確、悪く言えばセクショナリズムが強く、部門間の情報連携が弱かった。さらに現場のリーダーが要件をまとめており、日々の運用で発生する作業者レベルの困り事が開発担当にうまく伝わらなかった。こうして「使われないものを量産」してしまった船戸氏。結果として、社内の、特に現場で長く働いてきた「たたき上げ」社員からの風当たりが強くなった。
「『俺たちが必死で稼いだ1円、1秒をITには使わせない』とまで言われた」(船戸氏)
こうした状況を変えるために船戸氏はできることから始めようと考えた。それは現場スタッフの困り事を解決するアプリ開発だ。業務の合間に簡単なアプリを一人で作成し、さまざまなデータのレポートへの転記作業を自動化した。すると現場スタッフからの感謝とともに、「ITは役に立つかも」という雰囲気が現場に生まれ始めた。
「この間作ってもらったアレ、すごく便利だよ」と、うわさがすぐに広がり、別の部署からも「作ってほしい」というニーズが寄せられた。ついには現場のマネジャーから依頼が寄せられるに至り、開発チームが正式に発足した。
だが、これで「めでたしめでたし」とはならなかった。
「部門内に開発ができるエンジニアがいなかったため、委託開発を検討した。だが、委託先は社内のインフラに対する知識が少なく、必要なスキルも不足しており、システムそのものができなかった」(船戸氏)
いきなり壁にぶつかった船戸氏。今度はアプローチを変え、社内のインフラは船戸氏らが担当し、委託先の中でスキルを持った人材に支援してもらうようにした。ところがスキル保持者は別拠点にいたため、遠隔でのサポートとなった。
「後で振り返るとこれが良くなかった。コミュニケーション不足や責任区分などで食い違いが生じ、委託先の会社が内紛状態になってしまった」(船戸氏)
そこで委託開発を諦め、内製で開発することにした。コミュニケーションも重視し、自社内でみんなが同じチームメンバーとしてお互いをサポートすることにも気を遣った。「今度こそは」と開発し、出来上がったものは、以前ITの評判を落とす原因になった「現場の言いなりで作った、使われないものたち」だった。
あれこれ試行錯誤の末に、ごみをいっぱい作ってしまった――この苦い経験から船戸氏は「顧客の要望通りに作るのではなく、顧客が何を欲しているかを探ることの重要性に気付いた」と言う。
そこで船戸氏は、企画担当など一部のユーザーではなく、ユーザー全体で開発に携わることを決断し、松本氏と共にアジャイル型開発の採用を決めた。ワークショップなどを通じて、ユーザーストーリーやデザイン思考、カスタマージャーニーといったアジャイル開発に必要なスキル、考え方を現場のユーザーと共に学んだ。「普段スパナを持っている現場の人がプログラミングをしたり、開発者が製造現場を見学したりして、お互いを理解していった」と船戸氏は語る。
こうして「ユーザーが本当に必要なもの」が明確になった。出来上がったものは、今度こそ「使われるもの」になったという。
ついに現場ユーザーと開発者が一体となった体制を整えることができた。とはいえ、今も課題はある。
まず作るべきアプリが増えるにつれてエンジニアも増えたが、その結果、どうしても技術の属人化が避けられず、教育コストも上がってしまった。この課題については複数人でプログラミングを進める「モブプログラミング」の導入によって解決を図っているという。
他にも課題はある。サービスが増加した結果、運用管理のコストが増大した。ソースコードのリグレッション(先祖返り)発生率は高まるし、ユーザー管理も複雑化する。こうした諸問題を解決するため、「Git」や「CI/CD」(継続的インテグレーション/継続的デリバリー)の仕組みを導入し、開発インフラの整備を進めている。「Keycloak」を用いたユーザー管理(ユーザー認証)にも取り組んでいるそうだ。
クラウドが利用できない環境のため、これらは自社内のオンプレミス環境で構築している。だが、今後利用できるようになったときのためにコンテナ化など柔軟性の高い仕組み作りを目指している。
船戸氏は最後に「1年前、一人でアプリを作ってうまくいっていたときと、今のやり方の共通点は何だろうかと考えると『ユーザーと一緒に作っていた』ことが挙げられる。人が増え、フローが増えると忘れがちになるが、やはり『ユーザーが困っている姿』を見た上で、それを解決するものを作ることが大事だと肌で感じている」と述べた。
ITに対する現場の風向きも徐々に変わってきた。ときにはユーザーからSlackで直接「役に立った、ありがとう」といわれることが、モチベーションになっている船戸氏。小さな失敗をたくさんして、その中から学び、得られた知見を共有して問題を少しずつ解決していくという地道な取り組みを、これからも続けていく。
今や自動車産業、製造業全体が、大きな変化の波に直面している。そんな中、松本氏は「今まで正しいと思ってきた概念、積み重ねた概念で判断していると、ディスラプション(既存のビジネスモデルを破壊することで生まれる新しいビジネスモデル)についていけない恐れがある。ときには周囲からの非難を交わしつつ、若手の新しいやり方や価値観を信じ、提案があれば絶対的肯定で話を聞き、支えていくことが必要。勇気を持って大変革期を乗り越えていくことが大切だ」と述べた。
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