日本の大学で学んだことは、実社会ではほとんど使い物にならないことが多い。この状況を打破するための試みが、日本のある場所で始まっている
たった今、福岡から帰ってきたところだ。もっとこういう機会を持ちたいが、実際は、そうしょっちゅうは行けないものだ。
福岡好きの人がその魅力を語るとき、大抵は観光客向けサイトに書かれているようなこと、例えば「トンコツがおいしい」「祭りが華やか」「かわいい女の子がたくさんいる」というようなことに集中しがちだ。
こういった魅力は確かに他の地域を卓越していると思うし、一見の価値ありなのだが、今回の訪問では、それとは別の福岡の良いところを発見した。それは、福岡のアントレプレナー(起業家)と学者たちの関わり方だ。彼らは、日本の若者たちの間で横行している障害の1つを、恐らく知らず知らずのうちに解決しようとしている。
日本の大学でコンピューターサイエンスや経営学を教える学者の世界と、実社会で製品を製作、販売している開発者やビジネスマンとの間には、不健全な隔たりがある。それぞれがいろいろな点で異なるものに重要性を見いだし、異なる言語を話す。
私は日本でのキャリアの大部分をソフトウェア開発にささげており、日本語はそれほど流暢(りゅうちょう)とはいえないが、日本人の同僚たちとソフトウェアデザインやプログラミングスタイルを議題に、無数の討論をしてきた。
でも私は、コンピューターサイエンスの論文は簡単なものすら読めないし、入門書の内容についてさえ議論できない。プロの開発者たちは「オブジェクト」と「ランタイム」について話し、学者は「対象体」と「実行時間」の議論をする。
開発者も学者も私の例え話の単純さに失笑するだろうが、これは現実の問題なのだ。大学で使っている言葉も学んでいる授業の内容も、実社会ではほとんど使い物にならない。
大学での経営学のカリキュラムは、抽象的なものになりがちだ。輝かしく継続的な経営キャリアを持つ日本人の経営学者は非常に少ない。私の同僚たちは、ビジネススクールで使われる用語は、実際のビジネス上で使われる用語としてとっくに排除されているものだともいう。
もちろん、大学で受ける教育が無駄だと言っているのではない。抽象的概念やアカデミックモデルは、背景や問題解決の枠組みとして役立つ可能性がある。しかし、あえて言おう。大学と実社会のギャップは、日本の新卒者と社会全体の両方にとって不当なものだ。
その昔、大企業は大学新卒者を大量雇用し、何年もかけて大学での知識を実社会に応用する方法を教えてきた。しかし残念ながら、そのようなシステムは今の日本には存在しない。大企業はもはや、そのようなトレーニングを行う義務を果たす気はない。
日本には、卒業後すぐに新しいことに取り組める若いアントレプレナー世代が必要だ。自分がいつもより日本に対して批判的になっていると自覚しているが、この特殊な問題は周知の事実だ。
学生は、実社会とのより濃厚な交流から大きな恩恵を受けられる。一部で前向きな動きがあり、幾らかの進展も見られる。大学のインキュベータープログラムでは、学部間の垣根を越えた協力や問題解決が奨励され、デザインやプログラミング、経営を専攻する生徒たちがチームで共同作業を行う機会を得ている。また、インターンシッププログラムが小さなブームとなっており、有望だ。
しかし大部分では、大学と実社会の隔たりは大きいままで、日本の学生と教授、その両者が、実社会の複雑さから隔離されたところにのんきに居続けている。
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