ソフトバンクが半導体設計会社のARMを約3.3兆円で買収する。なぜ、ソフトバンクがARMを買収するのか、ARMはなぜ買収されるのか、半導体技術者である筆者ならではの視点でその思惑を想像してみた。
ソフトバンクのARM買収の件が話題になっている(ソフトバンクのニュースリリース「当社によるARM買収の提案に関するお知らせ」は、「免責事項」ページで[同意する]ボタンをクリックして参照のこと)。「また、大きな買い物をして〜」とか、「高過ぎるんじゃない(ARM株式1株当たりの価格17ポンド、約2350円。2016年7月15日の終値11.89ポンド、約1644円の約43%のプレミアム)」とか、いろいろ言われているようだ。
ARMのことをよく知らない人も多かったようだ。「何でまた半導体会社なんか買うの」とか、「いやいやスマートフォン(スマホ)向けの半導体ではほとんど独占状態だぞ」とか、「財務状況がいいもうかっている会社だ」とか、いろいろと書かれている。
ことARMの製品について言えば、「低消費電力なプロセッサに強みがあって、これからのIoT社会では必須の部品だ」という線である。総じてARMの製品はよいから、買って手駒に加えたんだろう的な論評が多い気がする。
しかし、ARMの本当にすごいところを誰も言わないようなので書いておくことにする。IT産業というべきか、IoT産業というべきかで一番「よい情報」が集まるポジションにいるのがARMである、ということだ。
ARMはプロセッサ(GPUを含む)の設計情報を売っている会社である。半導体を作って売っているメーカーではない。誰がそんなものを買っているのか。ちょっと考えてみてほしい。もちろん、半導体を製造している半導体会社はARMから設計情報を買っている。自社ブランドで半導体製品を売っている会社なら、製造販売権を買っているはずだし、製造請負の会社だと製造権だけのこともある。半導体会社でなくても買っている。スマホだけでない、ほとんどのありとあらゆる組み込み向けの電子装置にARM搭載のSoCを見つけることができる。そして、それら電子装置のメーカーもまたARMから権利を買って使っている。
さらに言えば、ARM搭載のSoCを受託設計している設計会社もARMとの間で何らかの契約を結んでいる。関連はハードウェアだけにとどまらない。開発ツールベンダーだったり、ミドルウェアベンダーだったり、ソフトウェア関係の会社もARMと契約を結んでいる。どれだけの数量が流れているのか把握しきれないほど多数のARMコアが使われているのが現状だ。全世界のエレクトロニクス関連業界の会社でARMと何らかの契約を交わしていない会社の方が珍しいといえる状況にある。
当然、ARMと交渉する会社は、どんな機種の設計情報がほしいのかをARMに伝えることになる。高性能な機種なのか、より低コストな機種なのか、オプションにセキュリティ機能がいるのか、それとも別のオプション機能だろうか。それぞれの会社のそれぞれの需要に応じたものを買うわけだ(もちろん、太っ腹な一部の会社は何でも使える権利を買ってしまうケースもあるだろう)。
ARMとの付き合いが少し深まれば、次はこんな製品がほしいんだとか、こんなサポートを得たいとか、いろいろな注文もするだろう。何せ、CPUやGPUは電子装置の中核であり、企画の初期段階で決まるのが普通だ。つまり、ARMにはそういった会社が将来どんな製品を手掛けるつもりなのか十分推測可能な情報が集まってくることになる。当然、守秘義務はあるから、ARMはそれを他社に漏らしたりはしないが、ARM自体は集まってくる各種の情報を基に自社の方針を決め製品企画を考えているはずだ。
こきおろすつもりはないが、ARMの技術を細かく分解した個々のレベルでいえば、同業他社とそれほど決定的な差はないと思う。ところが、製品をリリースしてくるタイミング、性能とコストのバランス、上位から下位まで隙のないラインアップ、オプションや周辺、ソフトウェアなど総合力でみると他社を圧倒している。ARMの下に集まってくる各種の情報がそれを支えているのだと思う。
さらにである。ARMに入るお金は設計情報の権利を渡すときのワンタイムのお金だけではない。製造するにつれ、ロイアルティーも払われてくる。一般に半導体業界では、ロイアルティーは数量ベースで決まっていて、四半期に1度とか半期に1度とかを集計してお金を払う習慣だ。数量のごまかしはまずないはずである。つまり、ARM社は世界中のライセンサーがどんな機種をどのくらいの台数売っているか自動的に分かってしまうのだ。
調査会社などは苦労してデータを集めているが、ARMには、正確な情報がお金と一緒に流れ込む仕組みができている。これまた極めて秘密保持が必要な情報なので厳重に管理されているだろうが、どこのどういう系統の製品が売れているとか、この手はもうおしまいだ、といったことは容易に推測できる。これまたARMの方針決定に役立っているに違いない。
ARMはまさにエレクトロニクス業界の情報の流れにおけるハブともいえる位置にいるのだ。その情報がARMの「ほとんど独占」ともいえる高いマーケットシェアを支えてきたことは間違いないだろう。しかし、秘密は秘密である。過去も将来もARMが顧客の情報を漏らすことはないだろう。それは、ソフトバンクが親会社となっても当然である。しかし、孫さんが、ARMのキャップをかぶって、そのハブの中心に座ったらどうだろうか。今まで通りARMからは設計情報を買うだけ、というスタンスの会社にとっては何も変わらないかもしれない。
しかし、孫さんがハブに座っているだけで、ARMの設計情報だけでなく、それ以上の何かをARMに求める人々がスポークの側から群がってくるものと予想する。大体、有名どころの投資家といわれる人の元には、いろいろな企画を持ち込んで投資を誘う人々が門前市を成しているものだ。孫さんクラスともなると大変だろう。
そして玉石混交といえば聞こえはよいが、ほとんどが石ばかりだろう。ところがARMに集まる情報は、精度と確度の裏付けがある。そして、ARMは世界中のほとんど全てのエレクトロニクスに関係する会社とつながりがあるのだ。何か仕掛けようすれば必ず信号が到来するだろう。このネットワークと情報を孫さんが操るとなると、想像もつかないことがいろいろ起こるのではないだろうか。ちょっと恐ろしい。
最後に1つ、ARM自身が買われたいと思ったわけを推測したい。ARMの顧客は今この時点も、全世界でとんでもない数量のARM搭載の製品を作っている。ARMがしばらく何も仕事をしなくてもどんどんお金が集まってくるはずだ。どこの会社が市場で勝っても負けても、結局、勝った方も負けた方もARMコアを使っているのだから、ARMは困らない。その上全体としての数量は伸びている。集まってくる情報を基に、今まで通り、ラインアップを広げていけばまずは盤石であろう。
半面、ビジネスモデルというか、経営戦略の点では、サチっちゃった(飽和してしまった)感というか、チャレンジのなさというか、築き上げたルーティンを回していくだけ感が強いように思われる。
ARMを買う動機のある相手のほとんどは、既にお客にしてしまっている。ARMが入り込めていない市場もないではないが、ARMはあくまで設計を売るだけの会社だ。実際に製品を作り、そういう市場を「攻めよう」という顧客がいなければ何ともならない。そういうところを無理して攻略しようとしても骨折り損になるだろう。
その先の次の手を考えたとき、うらやましい限りの状況ながら、ARMは大いなる袋小路に入りこんでいるようにも見える。かっての急速拡大期のチャレンジングさは失われているものと見ている。そこに現れた孫さんに、閉塞(へいそく)状況を打破する期待を掛けたのではあるまいか。筆者のゲスの勘繰りだろうか?
日本では数少ないx86プロセッサーのアーキテクト。某米国半導体メーカーで8bitと16bitの、日本のベンチャー企業でx86互換プロセッサーの設計に従事する。その後、出版社の半導体事業部などを経て、現在は某半導体メーカーでヘテロジニアス マルチコアプロセッサーを中心とした開発を行っている。
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