シリコンバレーでは今、二流エンジニアたちがオフィスの卓球台の周りで多忙ぶりを嘆き合っている。その姿はまるで、バブル時代のニッポンのサラリーマンのようだ。
私が初めて日本に来たのは、1980年台後半のバブル全盛期だった。
誰も彼もがジュリアナで踊り、「『NO』と言える日本人」が話題だった。日本車や日本製の電化製品が世界市場を席巻し、西側諸国は日本の労働市場に羨望(せんぼう)のまなざしを向けていた。日本人従業員は教育レベルが高く、規律正しく、信じられないほどの働き者として有名だった。
その勤勉な国で働くことになり、私がどんなに困惑したか、あなたに想像できるだろうか?
私が働いていたのは、日本の大手IT企業だった。同僚たちは9時の定時前に全員が出社し、着席していた。しかし、午前中はお茶を啜る(すする)か新聞を読むかして過ごし、時には、はっきりしたアジェンダもなく延々と続く会議が開催された。
午後は資料をパラパラめくったりして過ごした。しかし夕方5時ごろになると、書類キャビネを勢いよく閉める音や書類をガサガサさせる音、苛立った溜息などで、にわかにオフィスが賑わい始める。そろそろ6時というころには、残業の希望者が次々と部長の元へ行き、期日に間に合わせるには残業するしかない旨を申し立てる。残業申請が承認されたら、自分たちの仕事の大変さについて2時間ほど文句を言い合い、それが終わったら帰宅する。
私はなぜこの働き方で日本経済が成功へ導かれるのか理解できなかった。しかし、研究所や工場を訪問するようになって、やっと分かった。そこには、質を重んじ、最良の製品を作り出すことに真摯に向き合う技術者たちがいたのだ。これこそが、私が聞いていた日本の姿だ。
残念なことだが、当時のソフトウェアエンジニアは、こうではなかった。電子系や機械系技術者と比べて、全体的に最終成果物に適切な敬意を払っていないように思われ、結果、ソフトウェアの品質も衝撃的なほど悪かった。
はっきり言おう。1980年代のソフトウェアエンジニアたちは意欲の低い集団だった。質の高い仕事をしようとする人がいても、開発過程にあまり関心がない管理職と要件をないがしろにする営業によって、最終的にその気持ちはなえていった。
その当時の問題の解決方法は、エンジニアを長時間働かせることだった。残業代なしで週60時間残業させることも珍しくなく、特に中小企業では、この地獄から抜け出す唯一の道はプログラミング業務から「卒業」し、管理職になることだけだった。
私が1998年と2002年に立ち上げた2社のソフトウェア会社では、日本人プログラマーを一人も雇わなかった。世界レベルの品質保証チームと驚異的なまでに熱心なサポートスタッフはいたものの(どちらも日本人だ)、日本人エンジニアは、ただの一人も採用に至らなかった。
しかし、この10年で状況は完全に覆った。日本のソフトウェアエンジニアは、シリコンバレーのエンジニアと比べてスキルが高く、労働倫理に優れ、高品質のソフトウェアを生産するようになった。
多くの人がこの意見に驚くだろう。
実際のところ、シリコンバレーの優れたエンジニアは、日本の、さらに言えば、世界中の最も優秀なエンジニアよりも抜きん出ている。だが、シリコンバレーは最高のエンジニアを引き寄せる磁石にすぎない。シリコンバレーで最も優秀な人種は、すでに自身の手でコーディングしていない。大金を稼げるので、私のようなスタートアップ会社のために働く気もない。
私が優秀だと思う日本のエンジニアとは、こういう人たちのことではない。本当の意味で重要視されるべきエンジニア、そう、プログラミングに専念する「heads-down coder」だ。
公の場でその功績が認められることはほとんどないが、実際にソフトウェアを作成しているのは彼/彼女らだ。彼らのおかげでソフトウェアは確実にリリースされ、継続的なサービス運用がなされている。彼らこそが、真のエンジニアなのだ。
エンジニアの質は、ブログのトラフィック数とか、ツイッターのフォロワー数とか、あるいはプログラミング知識試験の点数というようなものでは測れない。本物のエンジニアの質を決めるものはいたって単純で、「作成されたソフトウェアの質」と「その作成にかかった時間」だ。
私たちはこの10年で、日本にこれらの真のエンジニアが増え、反対に米国人エンジニアの質が低下したことを目にしてきた。今、日本は大差でリードしている。
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