「コミュニティ活動がすべてを変えた」――ラトビア企業で働く唯一の日本人エンジニアZABBIX-JP代表、ラトビアへ

» 2011年04月27日 00時00分 公開
[金武明日香,@IT]

 ラトビア共和国はバルト海に面した国だ。国土はおよそ日本の6分の1、公用語はラトビア語で、ロシア語を話す人々も多い。首都は、「バルト海の真珠」と呼ばれる美しい港町、リガ。ここに、オープンソースの総合監視ソフトウェア Zabbixの開発元、Zabbix SIAがある。

 「まさか、自分が海外、しかもラトビアで働くことになるとは思ってもみませんでした」

ラトビア共和国、リガ ラトビア共和国、リガ

 こう打ち明けるのは、Zabbix SIAで働く唯一の日本人エンジニア、ZABBIX-JP代表の寺島広大氏だ。寺島氏はミラクル・リナックスでエンジニアとして働いていたが、2011年4月に同社を退職。その後すぐにラトビアに移住し、Zabbix SIAのエンジニアになった。

 ラトビアに転職――実に大胆なキャリアチェンジである。日本人が20人程しかいないという異国の地で、エンジニアとして働くことになった経緯は何だったのだろうか。寺島氏の答えは簡潔である。「Zabbixのコミュニティ活動です」

Zabbixとの出合いがすべてを変えた

 寺島氏がZabbixと出合ったのは2005年のことだ。当時、寺島氏はあるSI企業に勤めており、インフラエンジニアとしてネットワークやサーバ構築の仕事を行っていた。

Zabbix SIA 寺島広大氏 Zabbix SIA 寺島広大氏

 「システムがよく落ちるので、監視の仕組みを整えてほしい。ただし、資金はあまり出せない」、この何気ない依頼を受けたプロジェクトが、寺島氏のキャリアを大きく変える転機となった。

 「私の仕事は“無料で良い監視ソフトウェア”を探すことでした。オープンソースの監視ソフトウェアをさまざま探しては比較してみたんです。そこで目をつけたのが、Zabbixでした」

 当時、オープンソースの総合監視ソフトウェアとしてはNagiosが有名だった。Nagiosはすでに何社もの日本企業で導入実績があり、日本語ドキュメントも充実していた。一方、Zabbixはまったくの無名ソフトウェアだった。寺島氏によれば、2005年当時、検索エンジンではZabbix関連の日本語ドキュメントは1件も出てこなかったという。

 だが、Zabbixの性能はNagiosと比べてもひけをとらなかった。あらゆるオープンソースの総合監視ソフトウェアを比較検証してみた結果、プロジェクトではZabbixが採用された。「あの導入は、日本でもかなり初期の事例だったのでは」と、寺島氏は振り返る。

たった1人だけのコミュニティ

 プロジェクトが終了してから数カ月後の2005年8月、寺島氏は日本語のWebサイトZABBIX-JPを立ち上げた。

ZABBIX-JPのフォーラム ZABBIX-JPのフォーラム

 「ZABBIX-JPを立ち上げと同時期に、ラトビアのZabbix SIAに日本語化のパッチを送ったんです。それがメールのやりとりが始まりでした」

 ZABBIX-JPの主な活動は、Zabbixの日本語化や英語ドキュメントの日本語への翻訳、フォーラムでの情報共有、パッチを送るといったことだ。今でこそ、ZABBIX-JPは数百人のML登録者がいて、8人のアクティブなスタッフを持つコミュニティにまで成長しているが、2005年時点では寺島氏たった1人のコミュニティだった。

 1人だから、やらなければならないことはたくさんあった。特に手間がかかるのが翻訳だったという。ZABBIX-JPを運営するまで、寺島氏は英語を日常でも仕事でも使う習慣がほとんどなかった。せいぜい、技術に関する英語ドキュメントを読む程度だったそうだ。仕事が終わった後にZabbixの情報を集め、淡々と翻訳していく日々が数年間続いた。

 プロジェクトで偶然出合ったソフトウェアの日本語サイトを立ち上げ、1人で運営する――やる作業もさることながら、モチベーション維持がかなり難しそうに思える。しかし、寺島氏は「もともとLinuxに興味を持ってインフラエンジニアになったので、オープンソースソフトウェア(OSS)コミュニティをやってみたいという思いはあったんです。それに、一度フォーラムを作ってしまったら、質問には回答せざるを得ないですから」と、あっけらかんと笑う。

コミュニティだけでなく、仕事でもZabbix

 「もっとOSSに関わりたい」と感じた寺島氏は、2006年1月にミラクル・リナックスへ転職した。初めはLinux関連の仕事をしていた寺島氏だが、2008年に「監視ソフトウェアでいいものを」という依頼に対してZabbixを提案したことがきっかけで、同社でZabbixビジネスを立ち上げることになった。

 寺島氏は、導入コンサルティングやサポート、オプション製品の企画など、Zabbixに関わること全般をビジネスとして成長させた。事業は順調に拡大し、やがて専任エンジニア4人を含むZabbixビジネスチームが出来上がったほどだった。結果として、チームは3年弱の間で、20〜30件ほどのZabbix導入実績を残す。

 Zabbixビジネスの拡大と重なるタイミングで、日本でもZabbixが緩やかに普及し始めた。初めはまったく問い合わせがなかったが、しばらくしてZABBIX-JPのフォーラムに問い合わせが来るようになったという。2008年ごろにはZabbix関連の日本語記事が各メディアに載るようになり、フォーラムへの書き込みは1日に10件程度にまで増加した。

「エンジニアとして、幅広い知識を持たなければ」

 コミュニティだけでなく、仕事でもZabbixとの関わりを強めていった寺島氏。自分のコミュニティ活動を認め、ビジネスへ成長させる機会を与えてくれた会社に感謝しながらも、「転職しよう」という気持ちが寺島氏の心には芽生えていたそうだ。

 「もっといろいろなことを知りたいと思っていました。私は6年間、ずっとZabbixを使っていましたし、ミラクル・リナックスでは5年間働きました。1つの企業にずっといると、どうしても知識の範囲や仕事のやり方といったものが固定されてしまいがちです。ですが、私はもっと別の技術、別の世界を見たい、見聞を広めたいと思ったのです」

 インフラエンジニアは、サーバやネットワーク、アプリケーションなど、幅広い領域に関わる職種である。寺島氏は何度も「自分はインフラエンジニアだから」という言葉を繰り返していた。「1つの技術にこだわるのではなく、いろいろ知ろうとしなければエンジニアとしてダメだと思う」という言葉には、インフラエンジニアとして寺島氏が目指す姿がうかがえる。

ラトビアで働いてみないか?

 2010年11月。転機は突然、海の向こうからやってきた。

 「転職するつもりなら、ラトビアで働いてみないか?」

寺島氏とアレクセイ・ウラジシェフ氏、東京にて 寺島氏とアレクセイ・ウラジシェフ氏、東京にて

 2005年以来、親交のあったZabbix SIA社長 アレクセイ・ウラジシェフ氏に何げなく「転職を考えている」と話したところ、「まずは1年Zabbix SIAでエンジニアとして働いてみないか」と持ち掛けられた。まったく予想外だった提案に驚いたが、二つ返事で受けたという。

 「ずっとコミュニティをやってきた人間にとって、開発元でソフトウェアのコードを実際に読んで触れるというのは、率直にとてもうれしいことです。また、いつもメールベースでしか話していなかった本社のエンジニアに会えることも楽しみでした」と、顔をほころばせる。

 Zabbixは、通常のOSSと異なり、開発元は企業である。そのため、すべてのコミッタがZabbix SIAに在籍している。ラトビアという新土地で、しかもソフトウェアの開発チームの仕事に関われるという環境は、「新しいことに挑戦する」ことを望んでいた寺島氏にとって、まさにうってつけだった。

 会社に相談したところ、「ぜひラトビアで活躍してほしい」と激励されたという。半年後、寺島氏はラトビアの地を踏むことになる。

コミュニティ活動で生まれた、人とのつながり

 ラトビアでの寺島氏は、日本向けのサポートや日本パートナー企業のサポート、日本におけるマーケティングなど、「日本とラトビアの掛け橋」となる役割を担っている。「いずれ、Zabbixの開発に関わってみたい」と、寺島氏は希望を打ち明けた。

 一方、不安点はやはり語学だという。英語は、ZABBIX-JPを運営し始めてから身に付けたスキルで、ビジネスでの実戦経験はない。さらに、職場では英語を使うが、ラトビアはラトビア語が公用語だ。「日本には、ラトビア語の本が1冊しかないんですよ」という言葉からも、日本とラトビアの距離がうかがえる。だが、と寺島氏は言葉を添える。

 「自分1人だけだったら、行く勇気などとてもありませんでした。しかし、私にはZABBIX-JPで生まれた、人とのつながりがあります。Zabbix SIAのエンジニアや社長のアレクセイ、多くの人が助けてくれると思うから、ラトビアにまで行けたのです」

 また、日本でのつながりも自信になっている。

 「2010年には、オープンソース・カンファレンスに登壇したり、インフラエンジニアの勉強会にも参加するようになりました。コミュニティでいろいろな人と交流できる機会を得られたこと、“Zabbixの寺島さん”と呼ばれるようになったのはとてもうれしいことでした」

OSSの日本語化は、自分の活躍の場を広げる

 「思い切ってコミュニティをやってみるといい」と、寺島氏は強調する。

 特に、海外で働いてみたいと考えるエンジニアにとって、コミュニティ活動で得る人とのつながりはいいきっかけになる。特に、まだ日本語化していない海外生まれのOSSはおすすめだそうだ。翻訳やパッチなど、やることはいくらでもあるから、MLなどで会話するうちに、海外のエンジニアに名前を覚えてもらえるのだという。

 多くのエンジニアが不安に感じるだろう英語についても、「日本人は、英語の読み書きは得意な人が多いので、これまで経験がなくても翻訳やメールなら意外とできる。いきなりしゃべらなくてもいい。メールが書けるなら、まずはそこから始めてみるとよいのでは」と励ます。

 「1人で黙々と翻訳しているだけでは、モチベーションが続かないと思うんです。英語がつたなくてもいい、海外のエンジニアと直接メールのやりとりができるようになると、かなりの自信につながると思います」

1人で始めた活動が国境を越えた

 ラトビアで経験を積み、今後どのようなエンジニアとして成長していきたいのか。こう尋ねると「全体を知りつつ、部分的に特化している人」という答えが返ってきた。

 オープンソース・カンファレンスやインフラエンジニア勉強会で出会った「すごいエンジニア」には、上記のタイプが多いという。

 「というか、そうじゃないと難しいと思います。何かに特化していると、コミュニティや勉強会でも“この人はこの技術に詳しい”と思ってもらえます。そのことは重要」

 Zabbixは総合監視ソフトウェアが故に監視対象が多く、その分アプリケーションからインフラまで、幅広い分野を知る必要がある。まさに寺島氏は、「全体を俯瞰しつつ、Zabbixについては他の人よりも知っている」エンジニアだと言えるだろう。

 1人で始めたコミュニティ活動はビジネスとなり、さまざまなつながりを生み、そして国境を越えた。世界地図を眺める楽しみが、また1つ増えたことをうれしく思う。

バルト海 バルト海

おまけ:ラトビアからの便り

 最後に、寺島氏から4月15日に受け取ったメールを紹介しよう。ラトビアでの日常、ちょっとした文化の違いなど、興味深い内容を紹介してくれた。

 「4月15日、リガは曇りです。昨日まで晴れていて気温も高く過ごしやすかったのですが、今日は一転、朝から空気が冷たいです。

 こちらに来てから、1週間ほどが経ちました。Zabbix SIAの人に手伝ってもらいながら仮住まいの生活に必要なものを買い集め、ようやくいつも通りの生活が送れるようになってきました。その間、ラトビアの習慣で驚いたことを、2つほどご紹介したいと思います。

 仕事の準備やいろいろな手続きのためにZabbix SIAにも何度か出社しています。ラトビア流の「朝の挨拶」、すでに出社している人に握手をして回ることに驚きました。後で聞いたところ、ロシアでも同じ文化があるそうです。

 最初の2日くらいは、向こうから差し出される握手に応じることしかできませんでしたが、3日目から、出社した時にデスクを回って手を差し出すと、笑顔で握手をしてもらえました。小さなことですが、「少し会社に馴染めたかな」という気がして、とてもうれしかったです。

 それから、もう1つ驚いたのが、居住ビザの申請のために胸部X線写真を撮りに病院へ行った時のこと。日本と同じように受付をして、カルテを持ってレントゲン室に行くわけですが、面白いのは順番待ちの方法です。

 日本では、「カルテを出しておいて名前を呼ばれる」方式がほとんどですが、その病院では待合室に入るなり「最後の人はどなた?」と聞きます。すると最後の人が「私です」と手を挙げます。次の人が入ってくると、また「最後の人はどなた?」と繰り返していきます。

 ラトビア語(ロシア語?)で話しているため、何を言っているのかは分からないのですが、状況から察するに間違いないと思います。シンプルな方法で理にかなっているのですが、ずっと見ていると少しこっけいで、暖かみのある光景に思えました。

 どんなささいなことでも、日本とラトビアとの違いに戸惑い、また面白く感じている毎日ですが、ラトビア人の人柄や食事は、日本人にも合いそうです。ラトビアでの生活はブログでも紹介していく予定です。ご期待ください」

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