ユーザー企業はベンダーに「短期間でシステムを完成させたい」と告げ、ベンダーはエンジニアを常駐させた。また、ユーザー企業は、納期を守るために要件定義作業と並行して設計業務を進めるよう、強く要請している。さらにユーザー企業の担当者は、他社と接触していたことを秘匿し、入札の段階に至っても形式的なものにすぎないと説明していた。
これらの事実に照らすと、ベンダーが本件システムの委託契約締結に強い期待を抱いていたことは相当の理由がある。
正式な契約書がなくても、「作業を要請」され、しかも「他社への接触を隠されていた」のでは、事実上の発注があったと考えてよい、との判断だ。
裁判所の言葉をそのまま借りれば、ユーザー企業の「契約準備段階における信義則上の注意義務違反」というわけだ。ベンダーの心情を考えると、妥当な判断だろう。
しかし裁判所は、ユーザー企業の非のみを一方的に認めたわけではなかった。
ベンダーが要求したのは「3800万円」だったが、判決でユーザー企業に命じられた支払い額は「1350万円」だった。開発総額「1億2000万円」の約9分の1だ。ベンダーが要件定義〜基本設計〜詳細設計の一部までを行い、成果物をまとめて提出していることを考えると、かなり少ない。結局、ベンダーは大きな損失を出したことになる。
このような不幸を防ぐために、ベンダーはどのようなことをしておくべきだったのだろうか。
まずは、合意事項を書面に残すことだ。
正式な契約書がなくても、仮の注文書でも、議事録でも、とにかく「双方の合意内容」と「未決事項」が分かる文書を作って、取り交わすことが必要だ。もしも、これらの作成をユーザー企業が拒むようなら、その時点でプロジェクトは中断すべきだ。
文書に記述する際は、未決事項とその決定時期を書くことが必要だ。
「○○機能を対象とするかは未確定。これについてはXX月末までに、ユーザー企業が判断して通知し、ベンダーはそれに基づくプロジェクト計画と見積もり書を別途提出する」などと決めておく。正式な契約を結べない「原因」を、その「決定時期」「責任者」「決定方針」と共に書き、その結果によって計画と見積もりが変わり得ることを書いておくのだ。
ベンダーが作業着手をする際の「前提事項」を書くことも大切だ。
「仮にベンダーに発注することになっても、そこまでの成果物に対する対価は、成果物の権利をユーザー企業に移譲した上で支払う」と書いてあれば、本件のようなもめ事にはならなかっただろう。
文書化と同様に大切なのは、ユーザー企業の発注意思の確認だ。
多額の費用が発生する発注意思確認が、ユーザー企業担当者からの口約束やメールだけではいかにも心もとない。発注しない可能性もあると知りながら、発注の意思があるように話すユーザー企業担当者もいれば、誤認や勘違いの可能性もある。
そのためにも、契約意思の確認は、複数ルートでするべきだ。
ベンダーのプロジェクトマネジャーとユーザー企業担当者間、ベンダーの営業担当者とユーザー企業の発注担当者、双方の経営層(あるいはトップ同士)など、複数のルートでユーザー企業の発注意思を確認し、その理解に齟齬(そご)や相違点がないことを確認することが必要だ。
IT紛争の例を見ると、これらが原因でトラブルに陥る例が実に多い。担当者間ではスケジュールと金額に合意したはずなのに、営業が確認してみるとユーザー企業内でまだ承認されていない、あるいは経営層がまったく知らないといったことは珍しくない。
当然ながら、そうしたプロジェクトは多くの場合、契約から検収までのどこかで問題が明らかになり、混乱が発生する。
ITプロジェクトは、ユーザー企業の経営層から担当者まで、そしてベンダーの全メンバーが、同じ目的の下、作業内容や期間などについて合意した状態で着手しなければうまくいかない。
裁判に勝つことも大切だが、裁判以前に「健全なプロジェクト運営のため」にこそ、「確認」と「文書化」が必要なのだ。
東京地方裁判所 民事調停委員(IT事件担当) 兼 IT専門委員 東京高等裁判所 IT専門委員
NECソフトで金融業向け情報システムおよびネットワークシステムの開発・運用に従事した後、日本アイ・ビー・エムでシステム開発・運用の品質向上を中心に、多くのITベンダーおよびITユーザー企業に対するプロセス改善コンサルティング業務を行う。
2007年、世界的にも希少な存在であり、日本国内にも数十名しかいない、IT事件担当の民事調停委員に推薦され着任。現在に至るまで数多くのIT紛争事件の解決に寄与する。
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