Intelからまた量子コンピュータに関する発表があった。ただ、今回の製品は、量子デバイスではなく、特殊な半導体だ。この製品の意味するところは何なのか、考えてみる。
「こんなの出ました!」と発表するのはいいのだが、発表してからしばらく経過してもそのインパクトが身近に伝わってこないと、だんだんと注目を集められなくなってくる。その上、発表ばかりを繰り返していると、確かに何か進歩があったとしても、細かすぎてよく分からないし、いつものことだし、「それが何?」ということになりかねない。「オオカミ少年」的なものが発生してしまう。
世間一般に対する量子コンピュータも、そういう世界に半分踏み込んでしまっているのではないかと思う。××qubitの動作が確認できたなどという発表は、これまでもちょくちょくあった。学会的にはライバルを出し抜く大きな一歩でも、すぐに実用化されるわけではない。
それに何やら不思議で興味をひくが、まず普通の人(筆者も含めて)には本当の現象は理解不能だ。何やら例え話のような説明があり、分かったような気にはなるけれど、例え話がごまかしであることを語っている本人が気付いていなかったら罪は深い。
そんな中、Intelからまた量子コンピュータ関係のプレスリリースが出ている(Intelのプレスリリース「Intel Introduces ‘Horse Ridge’ to Enable Commercially Viable Quantum Computers」[英語])。また「いつものか?」と思って読むと、今回のものは少々毛色が違うようだ。
発表されたデバイスには「Horse Ridge(ホースリッジ)」というコードネームが付けられている。半導体屋的に短く説明をするならば、「22nmのFinFETプロセスで製造されたミクスドシグナルのSoC」ということになる。
そう、このデバイスは量子デバイスでも何でもない、れっきとした普通の半導体(かなり過激な環境で動作するチップではあるのだが)である。しかし、こういうデバイスが発表されるということ自体、量子コンピュータが一歩も二歩も実用化に近づいたということの兆しと捉えていいのではないだろうか。
発表でIntelは、量子コンピュータの商用化への道のりを長いマラソンに例えていて、このデバイスが実用化への一歩であるけれども、まだ先は長いと正直に認めている。マラソンの一歩、二歩ごとにプレスリリースを出していたのでは大変だが、今回の発表は「アリな一歩」じゃないだろうか。
なお、「Horse Ridge」というコードネームは、米国オレゴン州の地名だ。Googleの画像検索で「Horse Ridge」を見てみたら大自然で、Intelが書いている通りに冬は寒そうだ。蛇足だが、直訳から日本でいう馬の背や駒が岳というイメージの地形を想像すると、大分違う大陸の風景である。
このHorse Ridgeの何が重要なのかといえば、「量子コンピュータの中核である量子的なふるまいをするqubit(量子ビット)群を制御するための回路」ということだ。今までの量子コンピュータのプレスリリースでは、「何qubitの動作確認!」といった話は出ても、それを制御するための回路の話など「細かい話」はまず書かれていなかったのではないかと思う。
Intelに言わせれば、それらは全て「力技で」「qubit」ごとに制御をしていたのであって、たくさんのqubitを制御するためには発展性がなかった、ということなのだ。そう言われれば、大いにそんな気がしてくる。
では、どれくらいのqubitがいるのかといえば、今日考えられている課題を解決するためには、「最低でも数百から1000qubitくらいを、安定して動作させなければならない」とIntelは書いている。振り返って現状を見れば53qubit程度だ。1000に対して53、結構イケていると思うかどうか。
1qubitが安定して動く確率があったとして、目標の1000qubitが全て安定して動くためには、その確率の1000乗で決まることになる。多分に天文学的数字だ。マラソンの一歩どころの比喩ではない。
しかしHorse Ridgeとその後継SoCが、複数のqubitを安定させて動かしてくれるのであれば、1000乗がどれだけ小さくなるのか分からないが、ぐっと達成が近づいて見えるのではあるまいか。
Horse Ridgeは、もちろん単なる22nmのSoCではない。その最大のポイントは動作温度だろう。4ケルビン、絶対温度4度(−269.15度)である。そんな温度で動くSoCという概念など今日までなかっただろう。通常のqubitは数百ミリケルビンである。Intel方式は温度が高くて1ケルビン以上でも動くと自慢してあったが、いずれにせよ極低温の世界である。
今までは、そんな低温の世界にある1qubitを制御するのに、数百本もの配線を通して力技で制御していたというのだ。Horse Ridgeはそんなqubitの近くにいて、複数のqubitを制御できるらしい。
外からの配線がどれだけのよからぬもの(熱を含めて)をqubit近くに送り込んでいたかは知らないが、素人目にも、安定動作のためには一緒に冷えたところにいて、近傍で制御した方がいいように想像される。そしてそういう特殊なSoCを製造できるのは、Intel半導体の底力だろう。その辺の半導体会社ではこうはいくまい。
Horse Ridgeのプレスリリース関連のブログ記事「What It Will Take to Make Quantum Computers Practical」[英語]を読んでいて、少々怖くもなってきた。量子コンピュータは、なかなか商用になるまでには遠そうだったので、いままで真剣に考えていなかったが、「デジタルデバイドならぬ、クォンタムデバイド的な格差を生み出すことにならないか?」ということについてだ。1ケルビンで動作するのだ。実用化できたとして、そんな冷蔵装置の中に漬かっている量子コンピュータを、自由に使えるのは誰なんだろうか。
IntelのJim Clarke氏は量子コンピュータが実用化できたら、創薬とかロジスティクスとか天災の予測とか大いに役に立つといったことを書いているが、「暗号はどうなんだ?」と聞きたい。量子コンピュータができたら、今の暗号など暗号でなくなるのではないだろうか。今のインターネットの世の中、暗号がインフラにも思えるが、それが無効化されてしまうとなると、まさに破壊的ゲームチェンジャーになり得るように思える。
Horse RidgeのようなSoCが発展すれば量子コンピュータも「お買い求めやすくなる」のだろうが、1ケルビンにキンキンに冷やさないと動かないようなコンピュータなので、買って維持できるのはごく限られた組織に違いない。否が応でも持つものと持たざるものの格差が発生するのではないかと想像する。
当然ながら、真っ先に利用されそうなのは軍事用途だろう。第二次世界大戦で、初期のコンピュータが発達したのは周知の通りだ。その際、ドイツのエニグマ暗号を英国はそのコンピュータで解読していたが、大戦終了後も解読できることはしばらく秘密にしていたと聞く。そのため、エニグマは大戦後も世界中のアチらコチらで使われていたらしい。まさに筒抜け状態だったわけだ。
いや、量子コンピュータもそんなことになっているのではないか。まぁ、妄想だけれども、Horse Ridgeのようなチップが姿を現すと、そんな状態も近いような気がしてくる。
あぁ、プレスリリースは大事だな。プレスリリースで進捗(しんちょく)発表している間は、新味のない発表でも、みんなが進展を知ることができる。逆に「この頃、プレスリリースとんと出ないね」となったらヤバイことになっているかもしれない。人工知能(AI)が世界を引っかき回している間に、量子コンピューティングが世界の根底を変えないことを祈ろう。
日本では数少ないx86プロセッサのアーキテクト。某米国半導体メーカーで8bitと16bitの、日本のベンチャー企業でx86互換プロセッサの設計に従事する。その後、出版社の半導体事業部などを経て、現在は某半導体メーカーでヘテロジニアス マルチコアプロセッサを中心とした開発を行っている。
「頭脳放談」
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