阿部川 その授業でプログラミングも学ばれたのですか。
モドリック氏 はい。eコマースは、クレジットカードをはじめとして、セキュリティが一番大切な要素となりますので、プログラム言語のLISPに似たものを使っていました。別の授業で、Javaを使った課題があって、当時大学のラボにあった20台くらいのコンピュータをつなぎ、並行処理で2週間かけてその課題を完成させました。でも、同じタスクをLISP言語でやったら2時間で済んでしまったのです。そこで「プログラム言語の選択は重要だ」と痛切に感じました。
阿部川 本格的にコンピュータ言語を勉強しないと、とお思いになったのですね。その後、大学を2002年に卒業なさいます。ご卒業後はすぐに就職されたのですか。
モドリック氏 いえ、卒業後は、取りあえず休みを取ろうと思っていました。でも、卒業式が終わった後、当然のように皆で飲みに行ったんです。そのときに意気投合した人がいて「明日土曜日に面接に来ないか」と誘われました。次の日面接を受けて「じゃ月曜から来てください」ということになり、その会社に入社することになりました。
阿部川 急なお話ですね。
モドリック氏 そうですね。ただ、この会社の社長は同じ大学の同級生で、同級生といっても既に40歳を超えていましたが、とても良い人で、頭も良く、この人となら仕事がしたいなと思える人だったんです。Webでカンファレンスをするためのソフトウェアとハードウェアを扱っていました。技術力も高く、新しい製品をたくさん開発しようという企業だったので、大変楽しく仕事ができました。
この企業はボストンの企業を買収していたので「どうしてもボストンに行ってみたい」と思うようになりました。ただ、私は大学を出たての22歳だったので、すぐにOKというわけにはいきません。そこで、例えばプログラムに関することだけではなく、ボストンの企業側で何かビジネスの観点から困っていることはないか、技術的な観点を超えて、何か、アイルランドとボストンを結ぶようなことはできないか、と考えました。技術の観点以外にも、コミュニケーションできるのではないかと思ったんですね。そんなこんなでボストンに行けることとなり、半年くらいあちらに住みました。素晴らしい街ですね、チャールスタウンに住んでいました。
阿部川 その半年は、ITだけではなく、ビジネスコミュニケーションもおやりになったのですね。
モドリック氏 そうです。具体的にやったのは、テストしているエンジニアたちと友達になったことですね。最初はエンジニアたちが何をテストしているのか全く分からない状況だったので、まずは友達になり、「ビジネスが目指しているのはこんな感じですよ」「こういった状態を目指していますよ」などと説明しました。
その会社には本当にいろいろな価値観を持った人がいて、コミュニケーションに工夫が必要でした。でも、だからこそ「皆の強さを合わせて“できること”を考える」ことが重要であると分かりました。
阿部川 まさに多様性を生かすということですね。
阿部川 半年ボストンにいて、その後ダブリンに戻ったんですね。
モドリック氏 そうです。ちょうど親しい友人が「10人ぐらいで世界一周の旅行をしよう」と誘ってくれたんです。ところが2002年当時、フランス人はそんなに簡単にはワーキングホリデーのビザが取れなかったんです。年間に許可する数が決まっていて、よっぽど政府関係者で、特別なコネでもない限り取れなかったんです。「あー、これは無理かな」と諦めかけていました。
すると、世界旅行の準備を手伝ってくれていた日本人の女性から「ダブリンでお世話になったので日本に来ることがあれば連絡してほしい」というメールが来ました。なんて偶然だろうと思い、これも何かの縁かもしれないと思って、「お誘いがあれば日本に行きますよ」と答えました。すると「じゃいつ来るの?」ということになって「はい、じゃ来月行きます」(笑)ということで、取りあえず日本に来ました。2002年の10月が最初の来日でした。
阿部川 えっ、もしかしたらそこからずっと日本でいらっしゃいますか。
モドリック氏 違います。人生はそんなに簡単じゃない(笑)。
阿部川 なるほど、ゆっくり行きましょう(笑)
モドリック氏 日本には2週間ほどいたのですが、そのときは冬なのに気温が高くて、みんなTシャツ、短パンで過ごしていました。暖かいし、お祭りもあるし、海辺もきれい。なんだこの国は最高じゃないかと思いました(笑)。
ビザは3カ月分あるので、まずはアイルランドでやっていた仕事をリモートでやることを許可してもらいました。振り返ってみるとこの3カ月は人生の30年に相当するような濃い時間だったと思います。全てが新しい経験でしたから。文化も、言語も、人も、毎日の生活も。
阿部川 刺激的な3カ月間だったのですね。苦労もあったのではないですか。
モドリック氏 そうですね。例えば私は音楽を聴くのが好きなのですが、ヨーロッパで有名なヨーロッパのバンドと、日本で有名なヨーロッパのバンドは違うんです。日本のバンドはほとんど知らないから、聴く音楽がない。だから同僚と話をしてもかみ合わない。映画の話をしたくても、吹き替えである上に、題名まで違う。それに文字もあまり分からないから、検索もできない。ですから言葉を一つ一つ覚えていくしかなかったんです。
そのころ通っていた学校で、漫画を題材にした日本語の授業がありました。せりふの半分を隠し、隠されたところに自分の知っている単語や表現を使って、絵と整合性のある的確なせりふを入れる、といったものです。最初は「こんにちは」だけしか書けなかったけれど、少しずつ語彙(ごい)を増やし、少しずつ表現を増やしていく、そうやって日本語を話せるようになっていきました。
阿部川 漫画がきっかけとなったんですね。3カ月したらアイルランドに戻ったんですか。
モドリック氏 はい。ただその間に結婚したり、子どもが生まれたりといろいろな変化がありました。それからフランスに戻って、オープンソースソフトウェアに関する仕事をしました。
幼少期からさまざまな環境、文化、人と向き合ってきたモドリック氏は、多様性を生かし「皆の強さを合わせて“できること”を考える」重要さに気付いた。後編は、同氏が若いエンジニアに伝えたい「Be Hungry-ous」について紹介する。
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