僕は「自由」なわけじゃない、「自分勝手」なだけだ――HAL9000に憧れてIBMに入社し、同社初の“ドクター未満”で研究所所員となった米持幸寿さんは、自身のキャリアを振り返って、こう評す。人に恵まれ、運に恵まれ、何より努力を重ね、やりたいことを実現してきた米持さんの挫折と、過去の自分への恨みを晴らした出来事とは。
人は誰しも、大なり小なり、何かしらのコンプレックスを持っており、それとうまく折り合いをつけつつ生きているのではないだろうか。だが、長年日本IBMでテクノロジー・エバンジェリストなどを歴任し、今は大学院生として学びながら音声対話インタフェースの開発に取り組むPandrbox代表 米持幸寿さんは、自分でそのコンプレックスにケリをつけ、「過去の自分への恨みを晴らしている」という。一体どういうことなのか聞いてみた。
父親が大工をしており、身の回りに工作用具や材料がたくさんある環境で育った米持さん。出入りの電気工事の職人から「読み終えたから、あげるよ」と、雑誌「ラジオの製作」(と「少年チャンピオン」)、中古のはんだごてをもらったことがきっかけで、電気工作に熱中していったという。その少年の心にずしんと響いたのが、雑誌の記事で知った未来のコンピュータ「HAL 9000」だった。
当時、まだコンピュータは一般の人々には手の届かない存在だった。ただでさえApple IIの広告に衝撃を覚えていたところに、別の雑誌で「人間と話すコンピュータがある。そして、それを開発した会社はIBMらしい」という記事を読み、心の中に深くその存在が刷り込まれたという。
そして時は流れ、米持さんが中学2年生の時に、地上波で「2001年宇宙の旅」が放送された。
「これも何かのタイミングだったと思うんですが、その2週間後くらいに進路調査がありました。それで僕、『IBMに行ってエンジニアになる』と書いちゃったんです」と苦笑いする米持さん。言霊ではないが、この言葉がその後の彼の歩みを決定付けた。
ただ、そこで選んだのは普通高校から理系の大学へという進路ではなく、高等専門学校(高専)への進学だった。父親がケガを負ってしまったこともあり、決して裕福ではなかった米持家。「うちは貧乏だから大学には行けないよ」という親の言葉が重くのしかかり、自分でも大学進学の道はないものと思っていたという。
それでも高専の生活は楽しかった。機械工学を学び、初めてのコンピュータとしてメインフレームに触れて、FORTRANでプログラムを書き始めた。さらにロボットの自動制御プログラムを書くために先生に頼み込んで、人生初のPC、PC-8801mk2を学校で購入してもらった。アセンブラまでは購入できなかったため、マシン語で制御プログラムを書く日々を送った。揚げ句に「プログラムをもっと書きたいから」と自宅に持ち帰って、夜遅くまでプログラムを書いて、疲れたら寝る生活を送っていたという。
「当時から、テレワークをしていたといえるかもしれません」
就職を決めるときも「IBMしか行きません」と断言。バブル期だったから就職は楽だったと謙遜するが、面接の際に、「僕、マシン語を書いています」と話したことが決め手になったらしく、IBMに入社することになった。
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