今の米持さんからすると意外なことだが、最初の仕事はカスタマーサービス部門でのトラブルシューティングだった。顧客のところでエラーが発生したらソースコードを調査し、バグを見つけて修正するもので、ロボットという夢からも縁遠い地味な仕事だ。けれど「この時代に、マイクロフィッシュ(マイクロフィルムの一種)で保存されていた偉大な先人が書いたソースコードを読むことができたのは、大きな財産でした」という。
おとなしく仕事をこなしていた米持さんが本領を発揮し始めたのは、3年ほどたってからだった。
「4年目に、ディスク障害でデータが取り出せなくなってしまったお客さんがいました。そのお客さんのために、昔でいうユーティリティーソフトのようなものを書いてダンプアウトさせてデータを復旧させたら、ものすごく喜ばれました。あ、プログラムを書くってこんなに喜ばれることなんだ、と思いました」
翌年には、メインフレームの運用作業を自動化するソフトウェアを自力で開発し、提供し始めた。すると評判が評判を呼び、米持さんはサービス部門に在籍しながら、自然とプログラム開発に専念することになった。「やっぱり何かを作りたいんですよ。自分のどこか奥底に、『何かを作って人にあげる』というのがあって、やめられないんですよね」と振り返る。
そうして13年たった。インターネットの普及を背景に企業システムにも徐々に変化の波が押し寄せていた。米持さんは、自宅では大型PCを購入してLinuxをビルドし、Webサーバを立てたりしていた一方で、「Web時代の到来を見据えて、社内で勝手に研修を開催していました」という。
そんな彼のウワサを聞きつけたソフトウェアグループのマーケティングマネジャーに社内公募の形で引き抜かれ、Javaに始まり、WebサービスやSOA、IBMが買収したRational、そしてWeb2.0と、さまざまなテクノロジーのエバンジェリストを担うことになった。
あくまで「興味のあること、その時やるべきことへと、取り組むものをどんどん自分で変えていっていました」と米持さんは言う。ただ、上司からすると、勝手に隣の事業部のプロダクトを背負い込み始める、部門長泣かせの存在だったろうとも振り返る。
クラウドサービス事業部に行ったのも似たようないきさつからだ。東日本大震災が起きた日の夜、支援としてクラウドサービスのリソースを提供すべきだと隣の事業部長に直談判に行き、「やる以上は言い出しっぺのお前がやれ」と言われて担当することになったという。
こうしてさまざまな業務を経て最終的にたどり着いたのが、テキストマイニングを行う「IBM Content Analytics」、今でいう「Watson Explorer」だった。昔からの夢だった人の言葉を処理し、理解するコンピュータ、HAL 9000に一番近い技術だ。だが、当時の仲間が退職してしまったこともあって長くは続かず、途方に暮れていたところに届いたのがIBM東京基礎研究所からの誘いだった。
「IBMの研究所なんてドクターしかいないところで、高専卒の僕なんて行けないと思っていたんですよ」と米持さん。米国のWatson研究のトップとの面談でも「僕、高専卒で大卒の学歴がないんですけれど」と伝えたが、帰ってきた言葉は単純明快。「So what?」(それがどうした。やるの、やらないの?)だった――。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.