第259回 日本の半導体産業はどうしてダメになったのか? 今だから分かる3つのターニングポイント頭脳放談

1980年代、日本の半導体産業は世界で重要な地位を占めていた。2021年の今から振り返ると、3つのターニングポイントでの失策によって、日本の半導体産業は地位を失ってしまったように思える。どこで道を間違ったのだろうか?

» 2021年12月17日 05時00分 公開

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 編集部から「日本の半導体産業の凋落(ちょうらく)について書いてほしい」というリクエストがあった。「了解」と答えてしまったのだが、少し心が痛むものがある。業界の末座で右往左往していただけにせよ、その責任の一端のそのまた先っぽくらいは自分にもある、多分。「どの口で物を言う」とか「お前に言われたくない」とか指摘されそうな気もする。敗軍の将ならぬ、敗残兵の悔し紛れの世迷言と思って読み飛ばしてもらえたらありがたい。

振り返ると見えてくる3つのターニングポイント

 その昔、日本半導体が世界の半分を占めた時期がある。若い人からすると、「そんな時代もあったの?」となるだろうが、ビジネス向けのPCが登場し、バブル景気に入ろうかという1980年代のことだ。

 しかし、そこから約40年。凋落を重ねて、今やその火も消えかかっているような状況である。昨今、政府のテコ入れ策もあり、ここからリバイバルできるのかが問われている。振り返ってみると凋落の過程には、3つのターニングポイントがあったように思える。

 「もし」はあり得ない。が、ターニングポイントでの決断次第では日本半導体の中から、今日のIntelやTSMC、Samsungに匹敵する組織が現れていてもおかしくはなかった、と悔やまれるのだ。実際には、ターニングポイントの全てで失策を繰り返した結果として今日があるのだが……。

1980年代のターニングポイント:日米半導体摩擦

 まずは日本半導体の絶頂期、1980年代を見てみよう。この時代、強かったのは半導体だけではない。「電子立国日本」とNHKが持ち上げていた時代であったのだ。日本の総合電機メーカー各社は、ビジネス的にも技術的にも世界を席捲(せっけん)していた。

 そして、80年代後半にはバブルがやってくる。資金調達など「秒」だったはずだ(今では考えられないが)。規模や条件、前半か後半かでも大分違うが、この時代はざっくり数十億円から数百億円あれば立派な半導体工場ができただろう。

 日本の半導体メーカーは、総合電機メーカーの一部門であることが多かった。会社規模も大きく、資金調達も余裕、この時代の日本半導体がイケイケ(死語か)で突っ走ったのは、言うまでもない。

 それにイチャモンをつけてきたのが、米国の半導体企業だ。その代表を「Intel」という。今のIntelのサイズを想像してはいけない。この時代のIntelは、最先端の半導体を開発してはいたものの、日本の総合電機産業に比べたら一桁小さい規模感だ。

 大体、半導体市場全体のサイズも今からすると桁違いに小さい。この時代、日米両政府とも、産業規模の割には「ウルサイ」業界、という程度の認識だったと思う。

 しかし、そのうるささが功を奏した。時代は日米経済摩擦が問題になっていた。米国政府は「イラついていた」のだ。その中の象徴的な「案件」が日米半導体摩擦であった。細かい経緯は省くが、日本政府の出した答えは「米国製品をある割合買ってやれ」というものだった。

 日本の半導体メーカーの多くは、コンピュータや家電その他の部門を抱えており、半導体の生産者であり、半導体の需要家でもあった。バブルへ向かって景気はよかった。消費する半導体のうち、20%やそこら米国製品を買ったってたいしたことがないだろ、という感じだ。

 この時期、半導体の需要家へ売り込みに行くと、「国産のCPUなんか持ってきてもらっても困るんだよね」と言われたものだ。結局、米国の半導体産業から買ってもよさそうなものは、CPUしかなかった、ということだ。

 メモリなどは国産の方が価格も、信頼性も、デリバリー(供給)もよい。それどころか、米国の半導体メーカーは、メモリから撤退を始めてもいた。

 泡沫(ほうまつ)なCPUはさておき、当時、日本半導体の精鋭各社は、「TRON-CPU」を作るプロジェクトを展開していた。国産「TRON-CPU」の上で国産の「TRON-OS」を走らせるコンピュータ、そんなものが構想されていたのだ。

 今からすると夢想にも思えるかもしれないが、この時代であれば不可能ともいえなかった。何せ電子立国日本の電子産業は世界最強、そして相手のIntelやMicrosoftは、日本の総合電機産業が巨人なら小人のサイズだったのだ。

 日本規格のパソコンで世界市場を席捲する、という可能性はあったと思う。しかし、半導体摩擦の結果は「すみ分け」だった。日本はメモリやASIC、米国はCPUという役割分担だ。その結果、日本のどこかの会社が今のIntelの位置を占めるという機会は失われたのである。

1990年代のターニングポイント:バブル崩壊

 続く1990年代のターニングポイントは、言わずと知れたバブル崩壊だ。崩壊して何かが一気に変わったということではない。崩壊の影響がじわじわと日本半導体の体力も技術力も奪っていった時代、と言っていいだろう。

 当然のことだが、資金調達は困難になって、各社やりくり算段が厳しくなる。一方、半導体工場を新設する費用は嵩んでいく。この時代の後半になると先端工場は1000億円規模となる。

 ここで半導体が、大きなメーカーの一部門であることの足かせが明らかになってくる。総合電機産業の各事業部門とも限られた投資資金を自分のところに持ってきたいわけだ。その中でも半導体の投資は巨額。そして、よく知られているように半導体の好況、不況の波は非常に大きかったのだ。ダラダラと不況で赤字が続き、あるとき突然に売れてガッポリもうかるという感じだ。

 もうかっているときの投資には反対されないが、赤字のときの巨額投資は正気か、といわれるだろう。しかし、半導体に関してはその狂気が必須といってもよい。

 工場の新設だけでなく、その上でのプロセス開発、そしてそのプロセスを利用した製品開発と、工場が回るまでの道のりは長いのだ。好況になってから投資しても遅い。何年か先に、ガッポリもうかることを信じて投資するしかない、ということがままある。日本だけでなく、海外の半導体でも同様に迫られる決断だが、バブル崩壊後の日本半導体の決断は、総じて「遅くて、小さい」ことが特徴となった。半導体部門だけの会社ではないのである。

 今からこの時代を振り返ってみると、「チャンスはあったな」と思うのだ。TSMCになるという選択だ。まだこの時代の日本半導体の技術は、世界の先端に対抗できていた。層は厚かったのである。

 そして、何だかんだといって、資金が全くなかったわけでもないのだ。やりくりすれば、自前で先端の半導体工場の新設も可能だった。もし、この時代、半導体各社を製造と製品(設計と販売)に上下分離し、製造部門をまとめて巨大なファウンダリにできたら(当然資金も集中させる)、多分、TSMCの出る幕はなかったのではないか。夢想だが。

 ファブレス化した製品部門は分野ごとに小分けにしてしまう。赤字で潰れるところもあるだろうが、ユニークな市場を切り開き、後のNVIDIAやQualcommのような会社が現れたかもしれない。それが「まだ」できた、と勝手に思っているのが90年代だ。

 しかし、実際にはそのような再編は起こらず、半導体各社、うなぎのぼりに上昇する費用に七転八倒し続けることになる。結果、徐々に後れを取る技術が多くなっていったのだ。

2000年代のターニングポイント:スマートフォンへの市場シフト

 そして2000年代、フォーカスとしてはちょっと遅れて2000年代中盤から2010年代前半にかけてくらい。ここでのターニングポイントは、携帯電話(いわゆるガラケー)からスマホへの市場シフトだ。

 半導体的にいえば、全世界がArmベースの「エコシステムに巻き込まれていった」時代だ。この時代に実力をつけ、その後、世界一(一時だが)の半導体会社になったのが韓国のSamsungである。ここでも日本半導体がSamsungになれる目はわずかにあったと思っている。

 しかし、そんな可能性に目を向けることなく、日本半導体は擦り切れ、後れを取り、削られていくことになるのだ。また、この時代は半導体の設備投資の巨大なリスクに、日本だけでなく欧米もおののいて、「リスクオフ」に舵を切った時代でもある。

 半導体部門の切り離し、分社化、売却といった事態が頻発するのだ。さらに先端半導体の製造から手を引く、という決断もなされるようになる。どこの半導体会社の製品も、実はTSMCの製造という状況が進んでいく。

 先に述べた通り、日本半導体は「社内の」半導体部門にルーツがあり、当初は「社内に」需要家がいることが多かった。その幼年時代(1970年代)から幸せなエコシステムができていたのだ。

 その後、外販に乗り出し、世界中に販路を広げるようになっても、需要家とメーカー(マイコンなどではツールベンダーやソフトウェアベンダーなどのサードパーティーも含まれる)が、製品ごとの「エコシステム」を作るのに余念がなかったと言っていいだろう。

 需要家の「顔が見え」、売りっぱぐれのない堅実な商売を指向していた。組み込み用のマイコン製品が一番端的なのだが、三菱電機、日立製作所、NECといった当時の日本のマイコンメーカーは、自社固有のアーキテクチャで強力なマイコンライアップを複数抱えていた。応用分野ごとに多種多用な製品群があり、それぞれにエコシステムが出来上がって商売が回っていたのだ。

 ところが半導体部門の切り離しの流れが巻き起こる。日本では「切り出されて」「統合」された代表が、ルネサス エレクトロニクスである。ルネサスは、最初、三菱電機と日立製作所、後からNECが合体してできた会社だ。

 強力なマイコン製品群を持つ3社が合わさったら、超強力なマイコン会社になるかと思えばそうではなかった。3つではなく、数十なのか数百なのか小さなエコシステムの集合体であったのだ。合併したのだから当然なのだが、市場がかぶるエコシステムも多数あった。合併の実をとるには整理統合が必須になる。

 しかし、目先の売り上げ、利益の確保のためにはそう簡単に小さなエコシステムを切り捨てることもできない。内向きの努力と整理をしている間に世界は動いていったのだ。

 今日のスマートフォン(スマホ)でも日本製の部品はいろいろ使われてはいるが、周辺部品に限られる。しかし、スマホ以前の携帯電話の世界では中核部品にも日本の半導体は手を伸ばせていた。もちろん、欧州の携帯電話の世界でブレークしたArmについては日本半導体にも導入されてはいた。それは、数十もある小さなエコシステムの1つのアイテム、としての役割だった。

 しかし、AppleとGoogleという2社が主導するスマホ世界になるにつれて、明らかになっていったことがある。スマホ向けの最先端SoC(もちろんArmコア)を頂点として、通信機器、家電、自動車に至るまで、Armベースの1つの大きなエコシステムに飲み込まれる「グローバル化」が進んだことだ。レッドオーシャンという、弱肉強食の世界だ。多くのメーカーは、レッドオーシャンの中で戦いたくはない。

 レッドオーシャンの中での戦いに勝ち残った各社は、競争力を身につけていたのだ。Samsungを見たら分かるが、1990年代末には日本企業以上に苦しい状況にあったはずだが、従来型の携帯からスマホへの転換という大きな機会を見事に捉えて成功した。会社の全リソースをスマホに注入したようにも見える。よくいう選択と集中だが、オーナー企業の強みか、その徹底ぶりがすごい。

 極端に言えば、日本を除く世界中がレッドオーシャンに巻き込まれて激しい競争にさらされる中で、日本企業は長年培ってきた小さなエコシステム、緑の小島からなる群島の整理統合、効率化に取り組んでいたわけだ。

 しかし、虎の子の小さな緑の小島はレッドオーシャンの荒波にさらされて侵食され、小さくなっていった。スマホへの転換に乗り切れず、市場から振り落とされた会社は、日本に限らず多いが、ここを好機に伸びた会社もまた多い。日本半導体は、市場の転換期を好機として捉えることなく、振り落とされる側に立ってしまった。

 ここでちょっと蛇足な的なことも書いておきたい。日本企業の中からAppleに相当する位置を占められそうな会社があったことだ。ソニーである。ソニーは今でも立派な会社で、画像センサーを中心に落ち込んだ日本半導体の中のエースといえる。

 しかし、2000年代を考えてみると、Appleの進出を「食い止められた」可能性を持つ唯一の会社ではなかったかと思う。AppleのiPhoneは、2000年代も末の登場だが、その登場前にプレリュードともいうべき助走期間があった。iPodの時代だ。

 iPod以前のAppleは、「おしゃれ」なパソコンメーカーではあったが、Microsoftのお情けで生き延びているといった風評があるくらいの状態だった(Appleが潰れると、Windows OSのシェアが100%になって、独禁法に引っ掛かるなど)。それが、iPodで携帯型音楽プレイヤーという、当時のカテゴリーでは家電的な世界に進出、さらにインターネットとコンテンツの配信という今日の主流ビジネスへの足掛かりを作っていくことになる。iPodの成功があったればこそ、iPhoneがあり得たのではないかと思う。

 「もし」iPodが失敗していたら(Appleはモバイル端末、Newtonでは失敗している。このときもCPUはArm)、iPhoneはなかったのではないか。iPodを止めえたとすれば、iPod以前、携帯型音楽プレイヤーの頂点に立っていた「Walkman(ウォークマン)」のソニーしかないだろう。そして、ソニーはコンテンツ事業も傘下に持っていたのだ。iPodの立ち上がりを全力でたたいて挫折させていたら、今のAppleの立場をソニーが得ていた可能性もあっただろう。戯言(ざれごと)だ、忘れてくれ。

次のターニングポイント:中国勢との半導体摩擦が日本の半導体を揺さぶる?

 全世界の半導体市場がレッドオーシャン化した中で台頭してきた新勢力がある。中国勢だ。全世界が小さな緑の小島だらけだったら中国勢の参入はそれほど簡単でなかっただろう。中国がスマホを中心とした製造の中心となり、レッドオーシャン的なグローバル化をしたおかげで、「低コスト」を最大の武器に急速に伸びたわけだ。その時代は2010年代といっていいだろう。

 しかし、時代は巡る。再び「半導体摩擦」が勃発した。「摩擦」の場が経済だけであった前回と比べると、今回はよりきな臭い。再びターニングポイントがやってきたわけだ。確実に変動が起こる。年寄りとしては緑の小島に閉じこもって嵐をやり過ごしたく思うのだが、確実に巻き込まれる。

 日本の半導体は、前回の一方の主役から脇役へと滑り落ちている。脇役なので主役の動向を注視しながら絡んでいく必要があるが、ここで名脇役の存在感を示せるかどうか、というところだ。何もせずにはいられないだろう。でもまあ、誰が作戦指導するのか? 難しいかじ取りを指揮する司令長官はいるのか?

筆者紹介

Massa POP Izumida

日本では数少ないx86プロセッサのアーキテクト。某米国半導体メーカーで8bitと16bitの、日本のベンチャー企業でx86互換プロセッサの設計に従事する。その後、出版社の半導体事業部などを経て、現在は某半導体メーカーでヘテロジニアス マルチコアプロセッサを中心とした開発を行っている。


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