不登校という暗いトンネルの中にいたヒュージ氏にとって、唯一の光はPCだった。初めて触れたのは5、6歳の頃、ブラジルの叔父の家でマインスイーパーを教わった記憶にさかのぼる。10歳の時、経済的に余裕のない中、両親は彼にPentium 4搭載のデスクトップPCを買ってくれた。
「両親は相当頑張って買ってくれたんだと思います」
ゲームを動かすために、あるいはブラジルの親戚と連絡を取り合うために、彼はPCという魔法の箱にのめり込んだ。
「1つのツールでここまでいろいろなことがやれることに冒険心をかき立てられました。限界に挑戦したい気持ちもあったので、PCの内部をいろいろいじって起動もできない状況にして、そこからどう直すか、ぐらいまでがワンセットになっていましたね」
高校進学に際し、ヒュージ氏はデザインとPCのどちらを学ぶか迷い、CG(コンピュータグラフィックス)も勉強できる商業系の学校を選んだ。しかし、そこで出会ったプログラミングが彼の運命を決定付けた。
「イラストを描くのが好きだったので『デザイン系に進んでいくんだろうな』と考えていたのですが、プログラミングに出会ったら、本当に楽しくなってしまって。そこからプログラミング一筋、PC一筋っていう感じです。高校2、3年の時にはエンジニア一択だなと心の中で決めてました。むしろ他の職業は検討もしていなかった」
「自分で書いたプログラムで動かすことができた」という純粋な喜びは、かつて言葉の壁に阻まれていた彼に、万国共通の言語を与えてくれたのだ。
高校卒業後は、系列の専門学校へと進学した。高校で学んだVisual Basicから一歩踏み出し、Java、C、C#、さらにはWeb開発といった、より広範で実務に即した技術スタックを身に付けていった。
「『やっと広がっていった』という感じでした」
この時期の貪欲な学びが、後に彼がどんな環境でも「運が良かった」と言えるだけの確かな技術的バックボーンを形成したことは間違いない。
2014年、ヒュージ氏は名古屋のIT企業に就職した。当初は花形ともいえる自社製品開発部門に配属されたが、半年後、同期の退職による穴埋めという形で客先常駐(SES)へと異動する。一般的に、自社製品開発からSESへの異動はネガティブに捉えられがちだが、彼はここでも「運が良かった」と振り返る。
最初のプロジェクトではコーディングテストを担当、2つ目のプロジェクトでは早くも詳細設計を経験、2年目には顧客との打ち合わせに同席して、要件定義の現場を目の当たりにした。
「すごく運が良かったと思うんですけど、まだ2年目なのに客先との打ち合わせに同席させてもらえたんです。議事録を取りながら、そもそも要件定義とは何をするのかを勉強させてもらえました。当時はちゃんと理解していなかったのですが、いま思い返すと、相当恵まれてたんだと思います」
不測の事態によって放り込まれた現場を、ヒュージ氏は「上流工程を学ぶ最高のカリキュラム」へと自ら解釈し直したのである。
2年後、エンジニアとして充実した日々を送っていたヒュージ氏に、母校から「教員にならないか」という誘いが舞い込む。実は卒業時にも誘われていたが、「現場を知らずに教えることはできない」と断ったいきさつがある。だが現場を経験した「いまなら」と彼は教壇に立つ決意をした。そこから7年間、多感な高校生たちにITを教え続けた。
「教えること自体にすごく楽しさを感じるんです。一般的に『教える』とは、自分の持ってる情報を他にアウトプットするといった認識を持ってる方が多いですよね。でも、単にアウトプットすればいいというわけじゃない。かみ砕いたり、相手の理解を認識した上で『じゃあ、こういう教え方をしていこう』っていう思考を走らせたりするのが楽しくて、はまってしまいました」
彼は、プログラミング言語も、それを書く行為も「アート」だと捉えている。だからこそ、テクニックだけではなく、アートに向き合う楽しさも生徒たちに教えたい。
自身のクラスから退学者が出てしまったときの痛切な後悔や、技術に目を輝かせる生徒との出会い。それら全てが、教育者としての血肉となっていった。
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