IIJから東日本大震災まで日本のWebを変えた出来事や、過去25年におけるWebの転換点、次の25年でWebがどう変わるかなどについて、「第46回HTML5とか勉強会 - Web生誕25周年記念イベント」で行われたパネルディスカッションの模様をお届けする。
1989年3月12日の「Webの誕生日」(前編:「日本のインターネットの父」が語る六賢者との思い出とインターネット後の未来を参照)から25周年を記念し、3月13日に東京都港区のグリーで開催された「第46回HTML5とか勉強会 - Web生誕25周年記念イベント」(主催・html5j、共催・W3C)。
その後半では、日本において深くWebの運営と発展に関わってきたキーマンによるパネルディスカッション「Webの現在から未来へ」が行われた。
パネリストは、慶應義塾大学環境情報学部教授の村井純氏、かつてNTTドコモで「i-mode」の立ち上げに尽力し、現在は慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科で特別招聘教授を務める夏野剛氏、NTTコミュニケーションズで特にネットワークレイヤーからの視点でWebの技術と向き合ってきた小松健作氏、html5j.orgの管理人であり日本のWebエンジニアコミュニティの発展に尽力する白石俊平氏の4名。モデレーターはブログメディア「Publickey」の新野淳一氏が務めた。
ディスカッションに先駆け、新野氏は特に日本におけるWeb誕生から25年間の概略を、年表を基に振り返った。
1989年のWeb誕生から3年後の1992年。日本初の商用インターネットサービスを提供した「インターネットイニシアティブ(IIJ)」が創業し、ここから日本でのネット利用が加速する。
1993年には米国立スーパーコンピューター応用研究所(NCSA)において、後の「Netscape Navigator」「Microsoft Internet Explorer」(以下、IE)の原型となるWebブラウザー「NCSA Mosaic」が誕生。翌年には、Webに関する各種技術の標準化団体である「World Wide Web Consortium(W3C)」が設立された。
そして1995年11月に、マイクロソフトがクライアントOS「Microsoft Windows 95」をリリースした。それ以前のWindowsからのユーザーインターフェースの刷新や、業界挙げてのプロモーションなども奏功し、PCのOSとしては空前のヒット商品となった。
日本におけるWeb利用者の拡大において、Windows 95が果たした役割は大きい。それまでのWindowsでは、TCP/IPプロトコルを使うためにサードパーティ製品を用意する必要があった。Windows 95では、このTCP/IPが標準で搭載されていたのだ。また、マイクロソフトによるネット接続サービスや、オプションでのIEの提供(OSR2以降は標準添付)などが行われ「Webやインターネットを使うためのWindows」としての機能が出そろったのが、このWindows 95だったのである。
その後、1999年にはキャリアであるNTTドコモ(当時の社名は「NTT移動通信網」)が、携帯電話(フィーチャーフォン)でWebサイトの閲覧が可能な「i-mode」サービスを開始。その大ヒットにより、モバイルデバイスによるWebの利用シーンが大きく拡大した。
2000年代に入って、利用者のさらなる増加、ネットワークの帯域幅の拡大、モバイル利用の拡大などを背景に、Webは技術面でも急速な発展を遂げる。「Web 2.0」というキーワードが話題になった2005年前後には、グーグルの「Gmail」「Googleマップ」などを筆頭とする、画期的なネットサービスが続々と登場し、Webの可能性をさらに広げた。白石氏も「特に2007年辺りは、グーグルが毎日のように新しいAPIをリリースし、私もそれを一所懸命追いかけていた。Webが非常に面白い時代でした」と振り返る。
そして、2007年には「iPhone」が登場。2009年には当時ドラフト段階にあった「HTML5」が注目を集めることで、それまでテキストとメディアデータを統合したコンテンツプラットフォームであったWebが、次第にアプリケーション構築プラットフォームとしての存在感を増し始める。
2011年3月の東日本大震災発生後には、テレビや電話といった従来のメディアに加え、社会的な情報流通インフラとして、Webや、TwitterやFacebookのようなソーシャルメディアの重要性があらためて注目された。
Webが登場した当時から現在までの状況を振り返り、村井氏は「Webが登場した当時は、“遅い”という印象が強かった。ハイパーリンクの接続先の回線が細かったり、ダイヤルアップで常時接続されていなかったりといった状況がある間は問題も多かった。WebやHTMLという技術は、いつでもつながる、スピードの速いネット環境が整うことで真価が発揮できるようになった」と語る。Webの発展には、インターネットとの高速な常時接続環境の普及が不可欠だったというわけだ。
続いて新野氏は「これまでの25年でWebにとって重要だった技術や出来事は何だと思うか」について、各パネリストに意見を求めた。
ネットワーク技術者である小松氏は、「自分はもともとWebの技術者ではなかった。ネットワークインフラに関する仕事をしていく中で、Webブラウザー側に処理を分散できれば、サーバー側の仕組みをより軽量にでき、ネットワーク上で提供するサービスも、より低コストで質の良いものにしていけるのではないかというのが当初の関心だった。HTML5が出てきたことで、私が理想にしていたものが作れるのではないかと感じ、そちらの世界に飛び込んだ」と話す。
現在では、W3Cの仕様策定にも関わり、主にネットワーク系プロトコルや、デバイスとの連携といった分野で活動を行っているという。
その小松氏が「日本のWebにおけるターニングポイントだったのではないか」と語ったのは「2004年のGoogleマップの登場」と「定額料金制のインターネット接続サービス」だ。
「高速なインターネットサービスが、定額料金で利用できるという環境ができたことが大きいと思っています。インフラやプラットフォームが変わることによって、その上で提供されるサービスは進化する。Googleマップをはじめ、Web 2.0の隆盛などは、そうした流れの中にありました」(小松氏)
白石氏は、「その時々で面白いと感じたことをやりながら、今までやってきた。中でもHTML5は、常に“面白さ”の先端にあり続けているように感じる」という。
「昔はJavaをやっていたのですが、次第に技術に面白みを感じられなくなってきて、その後ライターに転向。Google Gearsのような面白そうな技術をちょこちょこと追いかけながらここまで来ました。
HTML5についても、同様に“面白そうだ”と感じてすぐに飛びつきました。html5jも、コミュニティとしてスタートした当初は、こんなに多くの人に集まってもらえるとは思いませんでした。HTML5は、社会基盤を作る技術として、今後長い間、多くの人に使われていくものになるだろうという感触を持っています」(白石氏)
近年「インターネットがもたらす社会的な影響」についての話を多くの場所でしているという夏野氏は、現在の自らの立場を「インターネット業界の無給宣伝部長」だと話す。その夏野氏が「100年後に残るインターネット上のエポック」として挙げたのは、「1994年のNetscape Navigatorリリース」「1998年のグーグル設立とPageRank導入による検索エンジンの隆盛」「2007年のFacebookの一般ドメインへの開放」の3点だ。
1994年当時に、夏野氏は米国ビジネススクールの大学院にいた。「以前からPCオタクで、インターネットはよく使っていた」という夏野氏は、Webを広く一般に知らしめることになる「Netscape Navigator」というブラウザーの登場に、そこで立ち会った。
「ビジネススクールでは航空会社の予約システムや銀行のATMが、Webを介してネットにつながったら何が起こるだろうかと考えていました。今では、これらは当たり前になっているけれど、それを20年前にイメージするきっかけになったのが、Netscape Navigatorだったわけです」(夏野氏)
グーグルによる広範なWeb検索エンジンの登場は「個人の情報収集能力」を、Facebookの.eduドメイン以外への開放は「個人の情報発信力」を、それぞれ飛躍的に拡張したという点で極めて重要な意味を持っているという。
夏野氏らがNTTドコモで手掛けた「i-mode」が、日本におけるWebのモバイル利用の先駆けになったのではないかという新野氏の問いに対し、夏野氏はBill Gates氏が1995年に著した『The Road Ahead』の中のビジョンを示しながら、当時の思いを語った。
「あの本の中で、Gates氏は“今後PCがどんどん小型化され、多くの人が持ち歩くようになることで生活が便利になっていく”と述べていました。それを見た時、私は“勝った”と思ったんです。
機器の小型化であれば、PCが小さくなるのを待つより、既に小さい携帯電話にさまざまな技術を盛り込んでいく方が速く実現できると思いました。モバイル機器は、人間の身体に一番近いコンピューター。それを実現するために、当時のネットの要素技術をできる限りi-modeに詰め込んでいきました。iPhoneなんかが当たり前の今の状況と比べてしまうと拙く見えるでしょうが、あの当時にしては、相当がんばったんです」(夏野氏)
「NTTドコモは独自の回線を持っていたわけで、それを使わずにインターネットを使ってi-modeを作り上げたというのは、今では当たり前だけれども、当時のNTTドコモとしては画期的だった」と言う新野氏に対して、夏野氏はひと言「あれは、NTTドコモがやったのではありません。i-modeチームがやったんです」と返し、会場の喝采を浴びた。
村井氏は、夏野氏が「Netscape Navigator」をトピックの1つとして挙げたのを受け、「インターネットのビジネス化、マネタイズ」という観点で、「そのカギを開けたのはWebだった」と発言した。
「当初のネットのビジネスモデルは“接続に応じてお金を取る”ものでした。それを、コンテンツやサービスによってビジネス化する最初のきっかけとなったのは、1994年の冬期リレハンメルオリンピックだったのではないかと思います」(村井氏)
同オリンピックにおいて、公式のWebサイトを構築したのは、サン・マイクロシステムズだったそうだ。まだWebが一部のアーリーアダプターのみに知られていた当時に、オリンピックの最新情報を発信するこのWebサイトには、世界中から多数のアクセスがあったという。これは「Webとは何か」を多くの人が知るための大きなきっかけになった。
1996年のアトランタオリンピックでは、IBMが公式Webサイトを構築した。IBMはDB2というデータベースシステムを持っている。
「IBMによるアトランタオリンピックのWebサイトは、技術的にも新たな試みが数多く行われたんです。オリンピックのWebサイトには世界中から、さまざまな選手や種目に興味を持った人が訪問します。
多様なニーズを持ったユーザーに対して、ダイナミックにトップページをアレンジして表示しようという初の試みを、バックエンドにDB2、フロントエンドではCookieを使って行いました。他にも、分散環境での同期をグローバル規模で実現するために、IRCのメッセージを使うといった技術的に面白いチャレンジが多くあったんです」(村井氏)
また、1998年の長野冬季オリンピックでは、パラリンピックとの同時開催ということもあり、W3Cやパートナー企業らの協力で特に「Webアクセシビリティ」の向上に関する取り組みに力を入れた。
現在では、Webでのコンテンツ表現において「文書の構造」と「デザイン」は明確に分けて作り、ビジュアルな情報が含まれる場合にも、そうした情報を受け取れない人のための代替情報を付加することが主流となりつつある。しかし、当時のHTMLによるコンテンツには、そうした観点が欠けているものも多かった。その点で、長野オリンピックにおけるWebアクセシビリティ向上の取り組みは「“全ての人のためのWeb”を意識した重要なものだった」(村井氏)という。
「このように、オリンピックはWebの歴史の中で重要な役割を果たしてきました。2020年に開催される東京オリンピックにおいて、日本のWebコミュニティはどれだけシンボリックなことができるのかを、これから6年をかけてじっくり考え、実現していってほしいと思います」(村井氏)
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