セキュリティ会社起業、ファイル共有ソフト「Winny」の暗号解読成功、政府の「情報保全システムに関する有識者会議」メンバー、「CTFチャレンジジャパン」初代王者――華々しい経歴をほこる“ホワイトハッカー”杉浦隆幸さんは、20代で創業し17年たった会社を去った後、新しい取り組みを始めた――。
コンピュータについて普通の人よりも深く知っていて、自分の手を動かして何かができる人、何かを作れる人――「ハッカー」をそのように定義し、自らもそんな生き方を実践しつつ、さまざまなハッカーを発掘してきたのが杉浦隆幸さんだ。「脆弱(ぜいじゃく)性を見つけた」「プロトコルを解析できた」「新しいサービスのプロトタイプを作った」……など「手を動かして目的を達成したときにハッカーとしての喜びを感じますね」と話す。
杉浦さんは2000年6月、ネットワークセキュリティに特化した企業として「ネットエージェント」を立ち上げ、セキュリティ製品の開発に携わりながら経営者を務めてきた。2017年8月いっぱいで同社を退職してからは、さまざまなカンファレンスやハッカソン、CTFなどに参加する日々だ。またこの間、テレビをはじめさまざまなメディアに登場し、セキュリティについて解説する役割も果たしてきた。
セキュリティが社会的に大きな役割を果たすようになるずっと前から興味を持ち、活動してきた杉浦さん。そのキャリアの背後には、どんな思いがあったのだろうか。
杉浦さんがネットワークセキュリティの世界に足を踏み入れたのは、学生時代だった。
「大学在学中にプロバイダーの立ち上げを手伝い始めました。そのころサーバの構築方法に関する日本語の情報はほとんどなくて、英語の情報を参照しながら立ち上げていたんですが、そのうちに、セキュリティに関する問題があるんじゃないかということに気付きました。これはビジネスになるんじゃないかな、需要もあるんじゃないかという予感がして、自分で会社を立ち上げることにしました」
スタートアップという言葉が広く受け入れられている今とは異なり、当時の学生にとって「起業」は高いハードルだっただろう。当時は、IT関連の会社でもセキュリティ事業を手掛けているところは少なく、ましてやセキュリティ専業の企業はほぼ皆無に近かった。そんな環境でやりたいことをやるには、自分で会社を立ち上げるのが一番だったそうだ。親が自営業をしていたこともあり、「やればできるだろうし、できないところがあれば他から持ってくればいい」と、プロバイダーの運用や受託開発などでためた資金を元手に会社を設立した。
「ただ、最初は思ったほどビジネスにならなくて……時代を先取りし過ぎたのかもしれません。フォレンジックやWebアプリケーションセキュリティも手掛けていたのですが、あまりビジネスにならない。それで、今で言う『次世代ファイアウォール』のはしりのような製品を開発したら、それが売れ始めました」
ちょうどブロードバンドが一般にも普及し始め、WinnyをはじめとするP2P型ソフトウェアを狙ったマルウェアによる情報流出が問題になり始めた時期だった。
雑誌のソースコードを書き写しながらプログラミングを学び始めた、というのはパソコン黎明期のエンジニアに共通するエピソードだが、杉浦さんもその例に漏れない。子どものころから親しんできたプログラミングにせよ、大学生時代に知ったサーバ構築やネットワーク運用、そしてセキュリティにせよ、基本的には独学で身に付けてきた。高校生のころは、自力で可逆圧縮が可能なコーデック開発にも取り組んだという。
「そもそもあの頃って、教えられる人もいませんでしたよね。ただ、インターネットが普及し始めたあの時期は、公開されているサーバにguestアカウントで入って、いろいろなものをダウンロードしたりして遊べました」と杉浦さんは振り返る。そんな環境と文化の中で、国内にはほとんど先人がおらず、先例のないことができるセキュリティの世界に面白みを感じ、スキルを身に付けていった。
「先例がなく、一番になれる良いチャンスを学生のときに見つけられたんだと思います」
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