今はどこもかしこも新型コロナウイルスの話題で持ち切り。在宅勤務が推奨されているものの、仕事によってはそうもいかない。そんな中、Armが開発ツールの試用期間の延長を発表した。これでArm関連の開発者も在宅勤務が可能になる?
出勤者、最低7割の削減が要請されているものの、4月上旬の報道では、いまだに在宅勤務に切り替えている割合は10%以下、という調査結果が目にとまった。在宅勤務というと、ビデオ会議みたいなところばかりが注目されているようだ。実際、ビデオ会議用のカメラの売れ行きはいいらしいし、会議サービスやアプリを提供しているベンダーは、もてはやされたり、セキュリティの不備を突っ込まれたりで話題になり、さらにはインターネットのトラフィックまで増えているらしい。そのインパクトは小さくはない。この調子で在宅比率10%が20%、40%に上がったときのトラフィック量が心配にもなる。
そんな中、Armからメールマガジンが届いた。Armに登録している方は、受け取って既に読んでいるかもしれない。タイトルを引用させていただければ、「COVID-19対策: Armツール在宅勤務向けライセンスのお知らせ|アーム株式会社」である(その対策プログラムの中核部分が、Webページで紹介されている)。
要約すれば、「Armの開発ツールは普段からお試し用として30日間無償で使えるようになっていたのを、90日間に延長します」ということである。通常と違う特例対応になっているのは、お試しラインセンスは1人に対して、1回限定になっているものを、「既にお試しライセンスを使用した人に対しても、再発行のご相談を承ります」という点である。
Armにしたら若干の事務手続きを除けば大きな費用がかかる話ではないと思う。しかし、Armのツールに依存するような開発の仕事をしていた人が、いざ在宅勤務に切り替えなければならないというときに、「ライセンスがないから無理」という事態になるのを防ぐことができるだろう。在宅勤務で、開発者や設計者に対するサポートの話はあまり聞かなかったので、なかなかいい取り組みではないかと思う。在宅勤務は、ビデオ会議だけで済むものではないのだから。
だいたい、電子デバイス業界などの大手製造業では、工場へ行かないと何ともならない製造現場はともかく、オフィスワーカーの大部分は在宅勤務ができる体制になっているのではないかと思う。それは「新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)」のために急いで構築されたものではなく、十数年くらい前から、社内ネットワークにVPN接続できるような体制を作り、出張や外出などで社外に出てもインターネットに接続さえできれば、社内にいるときと同様の環境で仕事ができるような仕組みを作っていたからだと思う。
このコラムだって、会社の管理番号のシールを張ってあるノートPCで、自宅でVPN接続中に見ている方がいるかもしれない。そういう場合、接続すればVLANなど使って社内にいるがごとく、部門ごとのネットワーク環境に接続できるはずなので、業務に必要なデータにも問題なくアクセスできるだろう。
開発や設計系の部署では、そこで使う有償の開発ツールなどをライセンスサーバで管理していると思われるので、もともと在宅勤務に配慮して設定されていれば、自宅でもそれらのツールを使うこともできるはずだ。業務にほとんど支障はない。ただ、そういう「恵まれた」環境で在宅勤務できる人ばかりではない。
ここでご存じない方向けに、半導体を中心とする電子デバイス関係の開発用ソフトウェアのライセンス事情をかいつまんで説明しておこう。
業務に使えるソフトウェアツールは、特定の会社の有償で、高額なツールであることが多い。利用者の絶対数が少ない(有力な営業マンならば、国内で「買ってくれそうな人」全員の顔を覚えているかもしれないくらいに少ない)上に、技術的にもかなり特殊で、常に更新が求められる。例えば、半導体の製造プロセスが進歩すると、対応ツールも変更が必要になる。といった具合なので、ツール開発にも人手がかかり続けることになる。これが、開発ツールが高額になる一因ともなっている。
そのため、毎年、限られたライセンス数からかなりの金額をいただかないと作る側は成り立たないのだ。買う側からしても、製造に直結するツールには何百億、何千億と投資した工場を稼働させ続けるために必要な「製造設備」的な側面がある。ある程度の金額(大手では数億〜数十億といった金額になるかもしれない)を払うのは、必要経費くらいに思われている。
金額も大きいため、多くのソフトウェア会社がライセンスの運用には厳しい。ライセンスサーバでライセンスを管理することが多いが、ノードロック(特定のコンピュータでのみ利用できる)契約の方がお安いとか、フローティングライセンス(コンピュータの制限なし)でも使用できる場所や部門が限定されていて、「リモートアクセスは不可」とかの縛りがある。組み込みソフトウェアの開発用の有償ツールなどでは、金額的には一桁とか二桁とか安いものの、逆にライセンス数では何桁か多い印象を持っているが、ライセンスを取り巻く構図としてはあまり変わらないと思う。
Armのメルマガを読んでいくといろいろ配慮が行き届いていることが分かる。VPNで職場のネットワークにアクセスできても、開発ツールのライセンスが社外からのリモート利用が不可の契約になっていれば仕事に使えないが、Armの改定されたEULA(使用許諾契約書)ではリモートアクセスの制限は外れているそうだ。
つまり、職場のライセンスがフローティングであれば、わざわざCOVID-19対応のライセンスを使わずとも乗り越えられる。しかし、ノードロック契約など社外からのライセンス利用が不可となるケースもいろいろ考えられる。そういう場合は、今回の在宅ライセンスが助けになるだろう。
また、組み込みソフトウェア開発では、たいていの場合、ターゲットボードにJTAG-ICE(デバッグ装置)を差し込んで、ファームウェアの書き込みや動作テスト、デバッグといった実機を使った作業が必須となる。実験室から開発中の実機を持ち出すのははばかられる(多くの会社で、持ち出すためには紙の稟議書にたくさんのハンコが必要になりそうだ。物理的なハンコをもらう時点で在宅にならない)。
有力ベンダーの開発ツールの多くに、ネットワーク環境にデバッグ用ハードウェアを接続しておけば、リモートデバッグができるオプションがある。それならばデバッグ作業も在宅でできるだろう。Armの場合も、先ほどのCOVID-19対応プログラムの下側に、リモートデバッグ用のツールを紹介している。ただし、これは実体のあるハードウェアで、有償だ。
なかなか的確に開発、設計系の在宅勤務に向けて支援しつつ、自社ツールもちゃっかり宣伝しているArmは立派だが、Armの開発ツールだけで開発や設計ができるわけでもない。
しかし、COVID-19は、そういう在宅でもいけるような体制に開発ツール業界全体が積極的に移行していくきっかけになりそうにも見える。もともとWebベースの開発環境とか試みは多くあるので、ベースになりそうなものはいろいろある。
しかし、現物を生産する工場はもちろん、開発、設計系でもブツあっての仕事を在宅にするのはかなり難しそうだ。最近のオシロスコープくらいなら軽くて小さいから持って帰ることも不可能ではないが、恒温槽とか電波暗室とか、そもそも持ち運ぶことができない設備がいろいろ頭をよぎる。評価系の仕事はなかなか難しそうだ。
それも、ロボットなど使って現物をリモートからマニュピュレートできれば在宅仕事にできなくもないが。不定形の仕事ができるロボットの費用や調達を考えると、今すぐできることにも思われない。ともあれ、Armが延長してくれた90日のライセンスの間にCOVID-19が下火になることを祈ろう。
日本では数少ないx86プロセッサのアーキテクト。某米国半導体メーカーで8bitと16bitの、日本のベンチャー企業でx86互換プロセッサの設計に従事する。その後、出版社の半導体事業部などを経て、現在は某半導体メーカーでヘテロジニアス マルチコアプロセッサを中心とした開発を行っている。
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