インドのエンジニアは、チャレンジがない仕事を我慢できないGo AbekawaのGo Global!〜Kumar Karvepaku編(前)(1/2 ページ)

CACHATTO INDIAの社長を務めるKumar Karvepaku(クマール・カルベパク)氏。読書とクリケットが好きなインドの少年は「いつか故郷に自分の会社を」という夢をかなえるため貪欲に勉強し、アジア、米国、日本を飛び回った。そんなカルベパク氏に訪れた出会いとは。

» 2020年08月17日 05時00分 公開

 世界で活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回ご登場いただくのはCACHATTO INDIAの社長を務める、Kumar Karvepaku(クマール・カルベパク)氏。

 エンジニア大国といわれるインドでは「子どもが生まれたらエンジニアにする」というほどエンジニアの価値が高い。当然そこに至る道のりは険しい。カルベパク氏はどのように乗り越えたのか。そして、日本で働くきっかけとなった出会いとは。聞き手は、アップルやディズニーなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。

夢はプロの「クリケットプレイヤー」

阿部川 お生まれはインド南部のティルパティですね。インドは多くの言語が使われていると思いますが、母国語は何でしょうか?

カルベパク氏 私の母国語はテルグ語で、インド南東部で話されている言語です。ただ、インドでは幼稚園から英語の授業があるので英語も話せます。

阿部川 それは素晴らしいですね。日本も本当に早くそうなってほしいと思います。小さいときはどのようなお子さんでしたか。活発だったとか、おとなしかったとか。

カルベパク氏 そうですね、おとなしくて恥ずかしがり屋でした。小さいころは特に読書が好きでしたね。多くは母国語で書かれたものでしたが、英語で書かれたものも読んでいました。学校に行くようになって、ようやく社会性が備わってきたとでもいいますか、多くの人と話ができるようになったと思います。

画像 「よくぞ残っていてくれた」と思える、幼い日のカルベパク氏の写真

阿部川 学校ではどんなことをされていましたか。「社会性」とおっしゃいましたので何かスポーツ、例えばクリケットはしていましたか。

カルベパク氏  (笑いながら)よくご存じですね。はい、やりました。インドではクリケットは一般的なスポーツですから。運動場でやったり、普通の道路でもやったりします。それ以外もさまざまなスポーツをやりましたよ。例えばカバディーもよくやりました。実は、プロのクリケットプレイヤーになりたいと思ったことがあります。

阿部川 クリケットプレイヤー!

カルベパク氏 はい。ただ、インドで、中流家庭に育ったものが、プロのスポーツ選手になるのは大変難しいことです。今は以前ほど難しくないので、子どもをプロスポーツ選手にしたいという家庭も多いと聞いていますが、私が子どものころは考えられないことでした。

阿部川 なるほど。でもそれが実現しなかったことは、e-Janネットワークス(後述)にとっては良かったかもしれませんね。

画像 学校での友人と一緒のカルベパク氏(右)

カルベパク氏 そうですね(笑)。

阿部川 お話を聞く限り、活発なお子さんだったように思いますが、そのころからエンジニアになろうと考えていたのですか。

カルベパク氏 はい。これは叔父の影響が強いですね。家族のほとんどは正規の教育を受けたことがなく、エンジニアという職業がどんなもので、どんな仕事をしているのかは知りませんでした。叔父だけは大学を卒業していて、「エンジニアはとてもいい仕事だぞ」と教えてくれたのです。

大学で身に付けた「分かってもらうためのIT」

阿部川 少し前にインド映画の「きっと、うまくいく」(原題: 3 idiots)を観まして、とても感動しました。カルベパクさんの青春もあの映画のようだったのですか。

画像 阿部川“Go”久広(取材はリモートで実施)

カルベパク氏 はい、私の年代のものは皆、エンジニアに憧れていました。特に1970年代、1980年代のインドではエンジニアが夢の職業でした。ですから大学もそれが目的で選びます。

阿部川 映画によれば、大学内での競争は非常に激しいもので、テストができなくて自殺までする学生が描かれています。あのくらい厳しいものなのですか。

カルベパク氏 そうですね。厳しいことは厳しいですが、あれほどではないと思います。エンジニアしか人生がないものと、自分の人生を思い詰めてしまえば悲劇も起こるのかもしれません。ただそれはほんの少しの人だけだと思います。どのようなキャリアを積むにしても精神的な強さは必要になってきますね。

阿部川 おっしゃる通りです。カルベパクさんはSri Venkateswara University College of Engineeringに入学されたんですよね。

カルベパク氏 はい。工学系の大学の入試は点数によってランクが決まり、それによって入れる大学が決まります。私の得点は1300点で、まあまあ良い点数だったと思います。その点数だと入れる大学は無数にあったので、工学系として大変有名なSri Venkateswara University College of Engineeringを選びました。

画像 大学在学中のカルベパク氏

阿部川 大学ではどのようなことを学ばれたのですか。

カルベパク氏 機械工学です。特に自動車工学を専攻し、学士を取得しました。それともう一つ私には夢がありまして、機械工学を学べるようになったら、メカニカルデザイナーとしての仕事をしたいと思っていました。効率的なエンジンのデザインや設計にも興味がありましたので自動車工学に加えて、ロボット工学なども学びました。1995年ごろのことです。

阿部川 今でこそ、ロボット工学は多くの人が学んでいますが、そのころはロボット工学を学ぶ人はまだまだ少なかったでしょうし、あまり認知度も高くはなかったですよね。具体的にはどのようなことを学ばれたのですか。

カルベパク氏 「フレキシブル生産システム」(FMS)を研究しました。FMSは1つの生産ラインでさまざまな種類の製品を製造する仕組みのことです。当時は一定のルールに基づいて処理をする「プロダクションシステム」が主流でしたが、まだまだ手作業に頼っている部分が多い状況だったので、FMSによって、できるだけ手作業を省いた最適な生産ラインを構築する必要があったのです。解決策の一つとしてロボットを導入することも研究しましたので、その意味でロボティクスも研究しました。

阿部川 意義のある研究ですね。一番難しかったことは何でしたか。

カルベパク氏 全て一から考え、作らなければならなかったことが一番大変でした。私は「どうすればこの技術を皆に分かってもらえるか」ということに心を砕きました。私はラッキーにも、最新のコンピュータや機器が使えたので、ロボットの具体的な動きをシミュレーションで見せることで皆に説明できました。でも、そこに行き着くまでは非常に大変でした。今思うと、ここで苦労したことが、その後のITの分野での成功につながったのだと思います。

阿部川 なるほど。逆説的になりますが、むしろ最初はITを専門にしていなかったことが、その後のIT分野への進出をスムーズにしたのですね。

カルベパク氏 そうですね。ただ、遅かれ早かれ、IT分野には進んでいったと思います。1995〜1998年の3年間、金属加工関連の工場のプロセスエンジニアを務めていましたが、ルーティーンタイプの仕事でチャレンジがなく、数年で我慢できなくなりました。その後、Exim Software Technologyという企業で、チーフソフトウェアアーキテクトとして仕事をしました。

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