そのころ、急きょ港区のタワーマンションにある自宅に戻った布川は、自社株がようやく320円で売れたというしらせに、がくぜんとしていた。
「くそお!」
本来なら10億円以上の利益を手にするはずだったのに、これでは利益がないどころか大赤字だ。この10年間の苦労が全て水の泡になってしまった。
「な、何でこんなことに。一体、誰が仕掛けたんだ」
布川は、寝室のベッドの上に倒れ込んだ。このマンションのローンだってまだたっぷり残っている。どうする。これから一体、どうする――布川は枕を抱きかかえ、体を丸めた。
そのとき突然携帯電話が鳴り、画面が東京リアルエステートの大矢からの着信であることを示した。
「大矢……。じいさん、何の用だ?」
大株主の大矢からの電話が愉快なものではないことは、想像がつく。できれば無視してしまいたかったが、万が一にも何か助け船となるアドバイスがあるなら聞いてみたい。そんな気持ちもあった。
「もしもし……布川です」
「大矢だ。大変なことになっているようだね」
電話の声だけでは、大矢がどのような表情をしているのか想像がつかない。布川は、声の震えを抑えながら答えた。
「何ていうか。どうしてこんなことに……と」
「どうしてこんなことになったのか。それは君が一番分かってるんじゃないのか? 法に触れるような仕事をさせておきながら、社員たちから悲鳴が上がっても何もしない。そんな会社の株を誰が持ち続けるというんだ?」
大矢の低い声は、布川の胃の奥に響いた。
「も、もしかしたら、その……イツワのことをご存じで……」
「イツワだけじゃない。君のところは仕事という仕事、全てがそうなんだろう? 労働基準局だって見逃すわけがない。そうなってはと思って知り合いの株主連中に知らせたんだ」
「な、何てことを!」
布川はベッドから立ち上がって声を上げた。しかし、大矢の声はそれを上回った。
「それは、こっちのせりふだ! 君は、株主たちにどれだけの損をさせたと思っている。君の汚いやり方など知らずに、AI(人工知能)やRPA(ロボティクプロセスオートメーション)に明るい会社だと喜んで投資した連中だ。それが実際には人材派遣まがいの偽装請負。株主たちの怒りは尋常じゃない」
「それは、その……今後は……」
「今後などない!」
布川は息をのんだきり、それを吐き出すことも忘れていた。しばらく返答のない布川に、大矢は最後に言い放った。
「株式を売り損なった者、大損をした者。みんなが、サンリーブスの経営陣を相手に株主代表訴訟を起こすと言っている。もちろんその筆頭は布川君、君だ。何億円になるのか何十億円になるのか知らんがね。とにかく首を洗って待っておくことだ」
大矢はそこまで言うと電話を切った。
もはや布川の頭脳に思考力は残っていなかったが、体中を襲う恐怖と寒気だけははっきりと感じ取れた。
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