デジタル庁創設や脱ハンコなど、政府のデジタル改革に注目が集まっていますが、その必要性は以前から訴えられてきました。今回注目されているデジタル改革は今までと何が違うのか。政府CIO補佐官として活動する筆者が、デジタル改革の現状、目指しているゴールを解説します。
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デジタル庁の創設、脱ハンコ社会など菅政権は発足時から政府あるいは社会のデジタルトランスフォーメーション(DX)に強い意欲を持って臨んでいます。先日行われた特別国会における菅首相の所信表明演説にも「政府のデジタル化」が盛り込まれていました。
もっとも、政府のこうした動きは2020年から始まったことではありません。内閣官房が私のような民間人をCIO(最高情報責任者)補佐官として雇用するなど、政府は随分前から、デジタル化の必要性には気付いていたでしょう。しかし、デジタル化が十分だったとはいえず、紙やハンコによる押印手続きが多く残り、各省庁間でデータを流通させる動きも進んでいるとはいえませんでした。
一方で、各国の政府や自治体が次々とDXを進め、新たなサービスを国民に提供しながら国と国民の生産性を高めていく事例が注目されるようになり、政府内はもちろん経済界などからも「日本はどうした」という声が頻繁に聞かれるようになりました。さらに、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大によるテレワーク推進の動きが、政府のデジタル活用を待ったなしの状況にさせました。
新聞、テレビなどのマスメディアでも、新政権のニュースとともに政府のデジタル活用に関するニュースが数多く報道されています。YouTubeでは平井卓也大臣がデジタル庁の創設に関して頻繁に発信しています。このように迅速で一体感のあるデジタル化の動きは、政府内にいる私から見ても、かつてないもののように感じます。
ところで、政府はデジタル化を通じて何を実現させようとしているのでしょうか? 単に各種行政手続きをデジタル化して楽にしようとしているだけでしょうか? 私が見る限り、その狙いはもう少し大きいようです。ここでは、ほんの一部ではありますが政府が既に実施している事例を通して、政府が何をしようとしているのかを見ていきたいと思います。
法人や個人が国に対して何かを申請したり届け出たりする際、従来は紙の書類を書いてハンコを押して郵送したり、直接役所に持っていったりするのが王道でした。最近はデジタル化が進み、インターネットを使って書類を提出する手続きも増えてはきましたが、それらはIT機器に手慣れた人が使えるオプションのようなものでした。
政府は数年前から行政手続きについて「デジタルファースト」という考え方を打ち出し、これから作る手続きはもちろん、従来あった手続きについても、まずはPC、スマホ、タブレットなどを用いた手続きを前提とし、IT機器が苦手だったり、身体的な事情があったりしてこれらを使えない人に向けて紙の手続きも残すという方針に切り替わりました。
紙での手続きは、一つ一つをとってみれば、「ちょっと面倒くさいな」という程度のものかもしれませんが、例えば企業が1年間に強いられる手続きの量は、従業員何人分の作業になることでしょう。大企業なら数百人規模かもしれません。そうした人々をよりクリエイティブな仕事や売り上げ獲得に資する仕事に回せば、企業としてかなり大きなメリットになるはずです。
個人レベルでも、会社を半日休んで役所に行くとか、ゆっくり休みたい日を邪魔されるということが、1億人単位でなくなれば、その生産性の向上効果は計り知れないものがあります。政府が手続きのデジタル化を進めるのは、企業や個人の生産性を高めて、より強い経済と豊かな生活を目指すという狙いもあるわけです。
しかし、この動きは諸外国にくらべて決して先進的とはいえないのも事実です。紙とハンコの手続きは山のように残っていますし、Webサイトからの手続きも画面が使いにくかったり重かったりしてITに慣れた人からも敬遠されがちです。そもそもどのサイトに行けば、目的の手続きができるのかが非常に分かりにくく、途中で諦めてしまうものも少なくありません。まだまだ諸外国との差を感じざるを得ないところです。
例えば、英国政府のWebサイトは結婚や就職、引っ越しなど人生のさまざまなイベントごとにメニューがまとめられており、実に使いやすいものになっています。必要な手続きが1つのWebサイトで全て済ませられるのが特徴です。
日本で引っ越しjをする場合は、国や地方にどれほどの手続きが必要でしょうか。名前や住所、電話番号を何回書く必要があるでしょうか。それらが一つのWebサイトを起点に済んでしまう英国政府が提供するようなサービスは、米国でもヨーロッパでも数多く運用されており、残念ながら日本は、この点、大いに遅れていると言わざるを得ません。
会社を設立する場合は、日本では紙と印鑑で書類を作り、公証役場などに出向くなど何週間もかかりますが、エストニアではスマホから十数分でできてしまうというのもこれを象徴する例でしょう。
日本政府もさまざまな手続きをデジタル化させつつあります。一例として経済産業省が中心となって進める「J-Grants」というものがあります。
J-Grantsは企業が国から受けるさまざまな補助金の手続きをまとめたポータルサイトのようなもので、国や地方自治体あるいは各地の商工会議所などが出している補助金を一覧、申請できます。さまざまな媒体から自分の会社が受けられる補助金を探し回り、あるものはPCで、あるものは紙で申請するという無駄な作業を短縮できます。
また中小企業庁の「ミラサポPlus」というWebサイトでは、「人材不足を解消したい」とか「市場開拓をしたい」といった企業のもつ悩みごとにさまざまな支援策を見つけて申請できます。
いずれも、これまで、どこにあるのか分からず、見つけたとしても面倒な手続きが必要だった政府の手続きを分かりやすく使いやすいものに変えてきました。
余談ですが、これらのサイトの企画・開発の中心となったのが、政府が民間から雇い入れたITエンジニアであることをご存じでしょうか? 政府では、例えばCIO補佐官であるとか、経済産業省のデジタル化推進マネジャーのように民間のITエンジニアを毎年増やしており、こうした人たちが民間の知恵や海外の事例などを持ち寄って、こうしたWebサイトを制作しています。実際の開発もいわゆる大手ITベンダーだけでなく、中小のベンチャー企業やシビックテック(民間のITボランティア団体)の方々が大活躍しています。アジャイル開発の考え方も取り入れて作った事例もありました。こうした動き自体も、近年、政府が変わってきた表れかもしれません。なお、政府では、今でも毎年のように民間のITエンジニアを募集していますので、読者の皆さんの中でも、われこそはと思う方は応募などしてみてはいかがでしょうか。
こうした動きは、政府内で次々に起こっています。農林水産省の共通申請サービスなどもさまざまな申請を済ませることができますし、何かと透明性を求められる日本年金機構も各種の申請を24時間、どこからでも受け付けられるように変わっています。
政府は現在令和3年度の予算を巡って折衝が続けられています。自身の政策を実現しようと概算要求をする各省庁と、少しでも支出を減らしたい財務省との間で激しい舌戦が繰り広げられるエキサイティングな時期です。何らかの形で国民や企業の豊かさや安全につながるとか、国や地方のコストを抑えられる概算要求であれば、財務省もそうそう文句は言わないのですが、それが説明できないとなると、どんどん削減されます。それ以前に、そんなものにお金を使うのは、税金の無駄以外の何物でもありません。国の予算には限りがあります。同じお金を使うなら、より効果性の高いものからやっていかなければなりません。
そこで出てくる考え方が「Evidence Based Policy Making」(EBPM)というものです。端的に言えば、政策は定量的にその効果を分析した結果を基に作られるべきであり、例えば「これからはAI(人工知能)の時代だから」とか、「ここに道路を作れば誰もが喜ぶだろう」といった雰囲気で政策を立てないというものです。前出のJ-Grantsも、このWebサイトにどれくらいの人が訪問して利用したか、その結果、企業側ではどれくらいの省力化を測れて、申請を受け付ける役所側もどれくらいの工数を抑えられるか、数値データを基に議論、検討を重ねたからこそ実施されたもので、その効果性は現在でも検証され続けています。
データを集めて分析しようというわけですから、ここは当然デジタルの出番です。政府ではこれまでの政策の結果を数値データで集めて分析し、それを基に政策を立てようという流れが随所で見られるようになってきました。例えば、内閣府では「e-Cisti」というWebサイトを立ち上げました。
e-Cistiでは全国の国立大学や研究開発法人に対して国が出したお金が効果的に使われているかを分析しています。この中には、例えば「国が出すどういう種類のお金が論文発表に役立っているのか」といった分析もあります。
国が大学や研究機関に出すお金は、大きく分けて「運営費交付金」と「競争的資金」の2種類です。前者は大学や研究機関を運営するのに必要なお金を毎年拠出するもので、安定的な資金といえます。一方、後者は、何らかの研究テーマに対して拠出するもので、各機関からの申請や提案に基づいて採択されます。これらがいかに論文に結びついているかを普通に考えると、明確なテーマを決めて研究テーマや方法を練り上げてから国に提案してくる競争的資金の方がより価値が高そうに見えるのですが、実際に分析をしてみると、実は運営費交付金でも競争的資金に負けないくらいの論文を出せていることが分かります(論文数や参照された回数は、その研究の価値を表す一つの指標です)。
政府はこれまでより競争性の高い競争的資金の方にお金をかけがちでしたが、もしかしたら、運営費交付金の方が基幹の経営を安定化させられる分、効果が高いのかもしれません(これは筆者の考察に過ぎませんが)。このようにデータから見ていくと意外なことが分かったりするわけで、こうしたEBPMの考え方が浸透すれば、同じ100兆円規模の予算でも、より私たちの暮らしを豊かにしてくれる政策が打てるようになるのかもしれません。
それもこれも、全ては定量的なデータを集めて処理できればこその話です。そのためには、政府に対する申請や届け出、報告、提言などをできるだけデジタル化し、データとして蓄積する必要があります。蓄積されたデータを基に政策を推進できるかが今後重要になってくると言えるでしょう。
ところで「オープンデータ」という言葉をご存じでしょうか? 国や自治体が自らの持つデータを公開して、皆に使ってもらおうという施策です。政府の持つデータをCSVやJSONなど汎用(はんよう)フォーマットもしくはAPI接続で世界中の誰もが自由に使えるようにするというものです。日本では経済産業省が公開している「gBizINFO」があります。
gBizINFOでは政府が持つ法人の基本3情報や取引実績、各種認定、届け出、資格、表彰情報の他特許の有無、上場企業については財務情報なども見ることができます。
この情報を一企業ごとに画面表示することはもちろん、条件を指定してCSVやJSONで一括ダウンロードしたり、「SPARQL」という言語やAPIを用いて、自分なりの検索条件で取得したりできます。これを使って自社の取引先や自分の就職先がどのような特徴を持ち、どの程度の信頼をおける会社であるのかを分析することも可能でしょうし、地域や業種を検索して商売相手を見つけることも可能でしょう。地方自治体からすれば地場にどんな産業が育っているのかを調べることもできるかもしれません。上手に使えばとても利用価値の高いサイトと言えます。
ただ、こうしたオープンデータはまだまだ発展途上にあることも事実です。Webサイトトの情報は政府内からまだ十分に集まっておらず、分析できる対象に限りがあります。本来ならこうした情報を地方自治体や民間の各団体、企業と交換することで価値が何倍、何十倍にもなるところですが、そうした状態には至っておらず、それらは今後の重大な課題と言えるでしょう。
政府が提供している行政サービスのデジタル化についてほんの一部分だけですが象徴的な事例を紹介しました。これらを見ていると政府が目指しているものが、単にWebサイトを使って仕事を楽にする、ハンコをなくしてテレワークをしやすくする、ということだけではないことに気付いていただけたのではないでしょうか。目指しているのは「官民の協業あるいは共創」です。
さまざまな手続きをデジタル化することで、政府、自治体、民間企業の生産性が上がり、皆がよりクリエイティブな、あるいは前向きな仕事に取り組むことができます。これは日本の経済を強くして暮らしを豊かにすることにつながります。そして、デジタル化によって蓄積されるようになったデータを活用できれば、より高い成果を出す政策の立案にもつながりますし、官民が一体となってデータの共有や流通に努めれば、そこにさまざまなビジネスチャンスも生まれてきます。官民そして大学などの研究機関も交えた共同体がより活力があり豊かな社会を目指す、それが、このデジタル改革が目指す姿なのかもしれません。
そしてもう一つ申し上げると、@ITの読者の中にも多数いらっしゃるであろうIT企業の方々は、こうした時代だからこそのチャンスがあります。会計ソフトの会社が確定申告の窓口となるサービスを提供して成功していたり、LINEが年末調整に一役買うニュースがあったり、政府のデジタル化にはアイデア次第でさまざまなビジネスチャンスが眠っているはずです。ITエンジニアの観点で見ても、今後、多くのことがデジタル化される場面では、当然のことながら自らのスキルを発揮する場所を見つけるITエンジニアも少なくないでしょう。読者の皆さんも、政府の動きを一つのチャンスと捉えて、模索してみてはいかがでしょうか。
次回は政府のデジタル改革で不可欠な「デジタルガバメント標準ガイドライン群」について解説します。
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