大学ではデータ分析やネットワークを学びました。でもPCを触ったことはありませんでした。
国境を越えて活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回は、ミャンマーやベトナムなどに拠点を持つ「ブライセン」でチームリーダーとして活躍中のMintzu Hnin Khat(ミンズ ニン カッ)さんにお話を伺った。絵を描くことが好きでWebデザイナーとして充実した日々を送っていた彼女を日本に導いたのは、1人のヒーローだった――。
聞き手は、アップルやディズニーなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。
阿部川“Go”久広(以降、阿部川) ご出身はどちらですか?
Mintzu Hnin Khat(ミンズ ニン カッ、以降ミンズさん) ミャンマーです。現在のミャンマーの首都はネピドーですが、昔はヤンゴンでした。私はヤンゴンから2時間ほど離れているダック・ウーという小さな町で生まれました。
私は1991年5月生まれで、兄弟は兄が1人と姉が2人。上の姉とは13歳ぐらい年が離れています。兄とは11歳、下の姉とは3歳違いです。
阿部川 ご両親の職業は何ですか?
ミンズさん 父も母も会計士です。会社勤めではなく、公務員です。
共働きだったので、上の姉と兄が小さいころは、母方の親戚が面倒を見てくれました。町に親戚がいて、家が近かったのです。下の姉と私のことは、上の2人の兄弟が面倒を見てくれました。
阿部川 お姉さんとお兄さんが親御さんがわりだったのですね。そのころのミンズさんは、どんなお子さんでしたか?
ミンズさん 子どものころは、遊んでばかりいました。絵を描くことが好きだったので、漫画を模写することが多かったです。「ボーボー」や「イティ」という、日本のドラえもんに少し似ているミャンマーの漫画などを描いていました。
阿部川 1人で絵を描くのが好きだったのですか?
ミンズさん 小さいころは友達がたくさんいて一緒に遊ぶのが好きだったのですが、学校に通うようになってからは頻繁に転校するようになりました。ミャンマーの公務員は3〜4年おきに転勤があり、母の転勤に伴って私も転校するようになったのです。中学校は2校、高校は3校ぐらい行きました。高校生のころは、母が1年に1回ぐらい転勤していましたので。
新しい場所で友達を作って、仲良くなって、分かれて、ということを何回も繰り返すうちに、友達を作ることに少し疲れてしまって、1人で過ごすことが多くなりました。1人のときは、家で絵を描いたり漫画を読んだりしていました。
阿部川 転勤の際は、ご家族全員で引っ越しするのですか?
ミンズさん いえ。私だけがずっと母と一緒に異動し、父と他の兄弟は別に暮らしていました。家族と離れるのはあまり苦ではなくて、母と一緒にいられれば平気でした。
阿部川 国内のいろいろな地域でお母さんと暮らしたのですね。地域によって文化の違いなどはありましたか?
ミンズさん 高校で転校した町は、食べ物など全部が違いました。食べ物が変わるとストレスになるし、幸せになれなくて、ふるさとに戻りたいと思いました。
日本の麺類はしょうゆや塩などの味付けで区別しますが、ミャンマーは麺の種類で分類します。私は小麦粉の麺が好きなのですが、その町はライスヌードル(モヒンガー=細麺やカソエ=平麺)しかなくて、食べられなかったんです。
麺が食べられないので、お米だけ食べていました。おかずは、母の手作りの料理です。おかずは酸っぱいものや辛いものが好きです。
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