グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はHubSpot JapanのTyler Shukert(タイラー・シューカート)氏にお話を伺う。最初にプログラミングを学んだときに「大変なだけで面白くない」と感じていた同氏が、幾つものWebサービスを開発するようになったきっかけとは。
世界で活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回ご登場いただくのはHubSpot JapanのTyler Shukert(タイラー・シューカート)氏。オーストリア生まれ日本育ちの少年は、憧れであり、目標でもある父を超えるためにスタンフォード大学を目指す。聞き手は、アップルやディズニーなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。
阿部川“Go”久広(以降、阿部川) 出身はどちらですか。
タイラー氏 生まれはオーストリアのザルツブルクです。モーツアルトが生まれた都市ですね。
阿部川 幼少期はずっとオーストリアで過ごされたんですか。
タイラー氏 いいえ。オーストリアにいたのは半年程度だったそうです。本当に小さいときなので記憶はありませんが、めちゃくちゃ元気で、友達も多かったし、はつらつとした明るい子どもだったと思います。小学校は日本の小学校に通っていました。
阿部川 オーストリアからどういったいきさつで日本に来たのですか。
タイラー氏 細かくお話をすると長くなるのですが、簡単に言えば父の仕事の都合ですかね。オーストリアは父が機械系エンジニアとして新しい工場の立ち上げのために赴任した場所です。そこで私が生まれました。父はMBA取得のために渡米してビジネス寄りの仕事をしたかと思えば、再び技術寄りの仕事をするなど精力的に活動していました。私が小学校に入るころは、「日本に戻りたい」という母の思いもあり、東北大学で研究員の職に就きました。
阿部川 なかなか活動的なお父さまですね。お父さまが米国人でお母さまが日本人とのことですが、一緒に付いていったのであれば語学が堪能になったのではないでしょうか。
タイラー氏 うーん、ハーフの家庭っていろいろなパターンがあると思うんですけれど、うちの家庭は特に頑張って英語を教えてくれなかったので、英語は割とすぐ忘れてしまいました(笑)。父が英語で話し掛けてくれたので、リスニングだけは何とかできたかな、というレベルです。
阿部川 なるほど。お父さまがエンジニアだとPCに触るのも早かったのではないですか。
タイラー氏 いいえ、普通より遅かったと思います。父は「コンピュータを使ってもどうせゲームで遊んでしまう」という考えだったので、初めて触ったのは中学生のときだったと思います。インターネットはつながっていませんでしたし、できることもほとんどなく、周りの友人がオンラインゲームをしているのをうらやましく思っていました(笑)。
その代わり「ものづくり」に夢中でした。のこぎりで木材を切って本棚を作ったり、ロボット教室に参加してロボットを作ったり。小学校高学年ぐらいには、自分から率先してエンジョイしてやるようになっていました。
阿部川 中学校に進学されますが、途中で米国のボストンに留学されますね。
タイラー氏 はい。これも父の仕事が関係しています。父は研究員をしながら、日本の外国人差別と闘う活動もしていました。当時は「国体(国民体育大会)に外国人は出場できない」といったルールについての抗議活動をしていました。あまり成果はなかったようですが、その後ルールが変わって、現在は外国人も出られるようになったんです。私は父の一番大きな功績だと思っています。
しばらくして研究員を退職し、米国でエンジニアとして再起することになりました。その話が出たときに「じゃあ、私と妹も付いていきたい」と。それで半年だけ、という約束でボストンに引っ越しました。中学2年生でした。ただ、母は海外生活に疲れていたようで日本に残りました。
阿部川 ボストンでの暮らしは楽しかったですか。
タイラー氏 楽しかったですね、人生で一番楽しかったかもしれません。日本にいたときは部活ばかりだったので、友達と放課後に遊ぶのも楽しかったし、学校帰りに買い食いしたり、寄り道したり。そういうのが全部楽しかったんです。私はスポーツが得意でバスケットとバレーボールをやっていました。米国では相対的にうまい方だったらしく、ヒーロー扱いされました。
阿部川 さぞかしモテたんじゃないでしょうか。最高に楽しかったボストンですが半年がたち、帰国されます。
タイラー氏 あまりにも楽しかったので「残りたい」と泣きわめいたくらいです(笑)。帰国後は中学校を卒業し、仙台の公立高校に入学しました。しかし、ボストンの経験もあったので、そのころは米国の大学に入りたいという気持ちが強まっていました。
ただ当時、語学力に自信がなくて。ボストンの半年間で日常会話くらいなら英語でやりとりできるようになったのですが、勉強となると違うと思ったのです。高校1年の夏休みに父と会うことがあったので、そこで「早めに日本の高校から米国の高校に編入したい」という話を父にしたんです。父はあっさり「いいよ」と言ってくれて、そこから本格的にどこかのタイミングで日本の高校を辞めて米国の高校に行こうという計画が動き出しました。
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