グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はカインズの崔国(サイ・コク)氏にお話を伺う。コンピュータに夢中になった中国の少年は「閉じられたWeb」の世界でも新しいサービス開発を夢見ていた。
世界で活躍するエンジニアにお話を伺う「Go Global!」シリーズ。今回ご登場いただくのはカインズの崔国(サイ・コク)氏。数学と縄跳び、そしてコンピュータが好きな中国の少年がインターン先の韓国で見つけた新しい世界とは何か。聞き手は、アップルやディズニーなどの外資系企業でマーケティングを担当し、グローバルでのビジネス展開に深い知見を持つ阿部川“Go”久広。
阿部川“Go”久広(以降、阿部川) 出身を教えていただけますか。
崔氏 中国の吉林省にある延辺朝鮮族自治州(以下、延辺)の出身です。2021年で31歳になります。
阿部川 普段、お話されているのは中国語ですか。
崔氏 ネイティブなのは韓国語ですね。子どものころは、家の中では韓国語で喋(しゃべ)っていましたし、テレビも韓国語のものを見ていました。でも外に出掛けると中国語といった状況でした。延辺では高校までの教育は韓国語なのですが、大学からは中国語に切り替わるんです。
阿部川 それは大変ですね。数字やアルファベットの発音も違うでしょう。
崔氏 はい、苦労しました(笑)。知らないことばかりで、中国語を一から覚える感じでしたね。
阿部川 まるで外国にいるような感じですね。延辺は今でもそうなんですか。
崔氏 はい、そうです。ただ、朝鮮民族の人数がどんどん減っているので、学生も少なくなり、学校の合併などが起こっています。
※参考リンク:延辺朝鮮族自治州(Wikipedia)
阿部川 そうなのですね。延辺で、幼稚園から大学までの間、過ごされます。中国の教育制度は日本と同じ年数ですか。
崔氏 大学以外は同じだと思います。日本は4年間ですが、中国は3年半です。最後の半年間は企業で研修をします。
阿部川 いわゆるインターンが教育に組み込まれているわけですね。
崔氏 はい。研修先は学校から推薦された企業の中から選ぶこともできますが、私は自分で探しました。学校から推薦された企業は「優しい」(簡単だ)と思ったからです。覚えるべき難しいことがあっても「学生だからどうせ分からないだろう」と詳しく教えてもらえない環境になっていると考えたのです。
阿部川 あえて難しい方を選択したんですね。大学の話から少し戻って、小さいころのことを教えてください。どんなお子さんだったでしょうか。
崔氏 外交的で活発な子どもでした。ちょっと太っていて背も低かったけれど(笑)。勉強はあまり好きではありませんでした。でも、数学はとても得意でした。試合に出たこともあります。賞は取れなかったけれど、毎回参加していました。
阿部川 勉強以外ではどういったことをやっていましたか。
崔氏 スポーツはあまりやっていませんでしたが、縄跳びは得意でした。結果はあまり良くなかったけれど、大会にも出ました。後は小学校のころはコンピュータに触っているのが好きで、ネットカフェに行ってよくゲームをしていました。今は身分証明書がないと小学生は入店できませんが、当時は大丈夫でした。
阿部川 最初にコンピュータを使ったのはそのころでしょうか。
崔氏 そうですね……、11歳ごろだったと思います。学校にあったコンピュータに触ったのが最初ですね。OSは「Windows 95」で、キーボードしか付いてなくて数学の計算しかやることがありませんでした。その後、マウスというものがあることを知ってびっくりしたことを覚えています。
阿部川 コンピュータで何をしていましたか。やっぱりゲームですか。
崔氏 ゲームもしていましたが、親が買ってくれた「AutoCAD」でよく遊んでいました。小さいころから自分の家を建てたいと思っていたので。ただ、設計したものをお父さんに見せたら「これは駄目だ」と注意されました。
阿部川 「よくやった」とは言ってくれなかったんですね。
崔氏 いわゆる「ダメ出し」ですね。「長さもちゃんと書いていないし、家具も入れていない」「この“m”はミリなのか、メートルなのか」と(笑)。
阿部川 お父さまは製造系の工場に勤務されているということでしたので、細かいところも気になってしまったでしょうね。その時、自宅にコンピュータはあったんですか。
崔氏 いいえ。こっそり学校のコンピュータにインストールしちゃいました。
阿部川 それはそれは……。先生に怒られたでしょう。
崔氏 怒られましたね(笑)。他の生徒に「これを教えてくれ」と言われて、先生も困ったようです。
阿部川 先生もびっくりしたでしょう。
阿部川 その後、中学、高校と進みますが、高校は中退されていますね。
崔氏 はい。その高校のカリキュラムとは違う勉強がしたいと思ったのです。試験(高等教育独学試験制度)を受けて高卒の資格を取り、延辺大学に入学しました。
阿部川 なるほど、飛び級をしたわけですね。
崔氏 そうです。いろいろな大学はありますが、コンピュータを学べるのはその大学しかなかったんです。「高校を辞める」と宣言したときは、両親は1日中眠れなかったそうです。泣いている母を見て、心配をかけて申し訳ないという気持ちはありましたが、早くコンピュータを学びたくて居ても立ってもいられない感じだったのです。
阿部川 そのときは将来コンピュータ関連の仕事をすると決めていたのですか。
崔氏 はい。私は設計や画像編集などが得意だったのでWebデザイナーになろうと考えていました。
阿部川 当時、Webデザイナーになりたい人は多かったのでしょうか。
崔氏 たぶん珍しかったと思います。プログラマーを目指す人はたくさんいましたが。Webデザインを学んでいく中で「自分がやりたいことは、みんなが使えるプラットフォームのようなものを作ることだ」と気付いたので、私も結局プログラムを学ぶようになりました。
阿部川 Webについて学ぶことでやりたいことが明確になったのですね。そのころの中国ではどのようなWebサービスがあったのでしょうか。何か参考にした企業はありましたか。
崔氏 当時はPCで動くソフトウェアが主流でしたから、私が知る限りWebサービスを提供する企業は多くありませんでした。例えば、検索エンジンの「百度(バイドゥ)」、チャットツールは「QQ(キューキュー)」、Twitterのような「微博(ウェイボー)」などがありました。世界ではいろいろな新しい流れが合ったかと思いますが、中国から外の文化を見ることは難しかったので、当時は米国にAmazonという企業があることも知りませんでしたし。
阿部川 Amazonを知らなくても、Webでサービスをやりたいという思いはあったんですね。大学ではWebに関することを中心に学ばれたのでしょうか。
崔氏 Webもそうですが、ハードウェアとしてのコンピュータについても学びました。ちなみに一番得意だったのは部品を買ってきてコンピュータを組み立てることでした(笑)。自分で組み立てると安く済むので、コンピュータを自作していました。
阿部川 先ほど中国は閉じられていたという話を伺いましたが、大学でWebサービスを作ったらインターネットにつなぎますよね、それで米国や日本にアクセスできたのではないですか。
崔氏 いいえ、つながるのは中国国内だけです。Webサービスを作るときは中国政府に申請し、IPアドレスを発行してもらい、そのIPアドレスを使ってWebサービスを公開するといったイメージです。ですから厳密にはインターネットではなくローカルネットなのです。HDDもたくさん使っていました。
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