勤怠に問題があるメンバーの遅刻の原因は、(ある意味)サービスな残業だった――。
ベンチャー企業。AIソフトの開発を得意としていたが、最近はさまざまな案件を請け負っている
大手コンサルティングファーム
創業10年のAIベンチャー「サンリーブス」は、メガバンク「イツワ銀行」の勘定系システム刷新プロジェクトの画面周りとAIチャットbot部分を請け負っている。「A&Dコンサルティング」から出向してきたプロマネの澤野翔子はプロジェクト内に問題を抱えているらしく、後輩の江里口美咲と白瀬智裕に相談をしにきた。同じころ、サンリーブス社長の布川はイツワの山谷と田中に呼び出され、澤野の交代を命じられていた。
ときはさかのぼって、8月20日の朝9時5分過ぎ。部下の桜田みずきがいつも通りにキャメルのショルダーバッグを抱えて出勤してくるのを、澤野翔子は眉をひそめて見ていた。
「おはよーございまあす」
遅れて出社しても焦る様子もなく、メイクだけはしっかりとしている。これまでは着任して日も浅いことから多少遠慮をしていたが、そろそろ我慢も限界だ。
「桜田さん、ちょっといい?」
翔子の呼び掛けに、みずきは「はあい」と眠そうに返事をした。
みずきはゆっくりと立ち上がって翔子のすぐ脇に立つと、「何でしょ?」と微笑んだ。翔子はその悪びれない様子に、小さくため息をついた。
「どうして毎日遅刻してくるの?」
きっちりと着こなしたグレーのスーツによく似合う芯のある声で翔子は諭すように話した。
「遅刻?」
みずきは少しだけ首を傾げ、無意識に肩に掛かる髪を一なでした。
「まだ9時ちょっと過ぎですよお」と悪びれる様子もないみずきに、翔子はPCの画面を向け、彼女の出勤状況を見せた。
「今日は9時5分、昨日は9時7分、おとといとその前は9時10分。あなた、定時に席にいたためしがないじゃない」
すっ、とみずきが息をのむ音が、翔子の耳にも届いた。
「毎日、計ってるんですか? ワタシが出勤してくる時間を」
その声には幾分の非難が含まれている。
「当然じゃない。私はみんなの管理者なんだから」
目の前に座っているサブリーダーの野口が、上目遣いに一瞬だけ翔子に視線を走らせた。
みずきの口元から、それまで浮かべていたほほ笑みが消えた。
「でも、あの……仕方ないんです。電車が、私が乗る電車があ、いつも少しずつ遅れるんですう。時刻通りに着いてくれれば、ちゃんと間に合うんですけどお……。だから、どうしようもないっていうかあ……」
「1本早い電車に乗ればいいじゃない」
「ええ? でもだってそれ、おかしくないですかあ? 私が悪いわけじゃないのに、何で私がカバーっていうか、損しなきゃいけないんですか? 文句なら電車に言ってくれませんかあ?」
みづきは小さな唇をとがらせた。隣の野口と西城が、顔を伏せて笑っている。
翔子は鼻から大きく息を吸って、頭に上りかけた血を冷まそうと試みた。この方法は案外うまくいき、声を荒らげたくなるのを何とか抑え込めた。
「いい? 桜田さん。そういう気持ちの緩みは仕事全体に響くの。少しずつ自分を甘やかす癖を付けて、それを直そうとしない人間は、少しずつ仕事も手を抜いて、パフォーマンスが上がらなかったり、失敗をしたりするわ。出勤時間は、それを守ろうとすることで、心に緊張感を作る、それが良い仕事につながる、そういうものなのよ。電車が遅れたとか、たかだか5分ぐらいとか、そういう言い訳があなたをダメにするの」
「私、『たかだか5分』なんて言ってませんけど!」
みずきの声が少しだけ高く、そして固くなった。
「でも、そういう心があるから、毎日毎日遅れてくるんでしょ?」
「でもお……」
「でもじゃない。明日からは遅刻厳禁。10分か15分早く家を出れば済むことなんだから」
みずきは翔子を真っすぐに見つめ、少し間を空けてから「はあい」と答え、栗色に染めた髪をふわっとなびかせながら自分の席に戻った。ノートPCを開く手つきが普段に比べて幾分乱暴だ。
その様子が少し気になった翔子はその後十数秒ほどみずきの様子を見ていたが、彼女が隣に座るメンバーたちと軽く言葉を交わしてから、キーボードを打ち始める姿が普段と変わらないことを確認し、自分のPCに視線を戻した。
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