その日の昼休み、翔子はサブリーダーの野口をイツワ銀行の社員食堂に誘った。桜田みずきの勤務態度のことを聞くためだ。
「彼女、以前からずっとアレなの?」
翔子が持参した弁当を開きながら尋ねると、野口は「アレって、遅刻のことですか?」と目の前のカツカレーに手を付けることもなく答えた。
「食べながらでいいから。そう、最初っから?」
「まあ、そうですね」
野口は答えると、フォークを手に取って話を続けた。
「でも、やることはちゃんとやってるし、お客さんからも特に言われませんしね」
「だけど、そういのって社会人としてどうなの? 若いうちからちゃんとした習慣を身に付けないと」
「まあ、そうっちゃ、そうですけど……」
野口のカレーを食べる手が再び止まり、「でも、毎日毎日遅くまでやってますからね。あの位は大目に見てもって、思いますけど」と続けた。
「それも気になってるのよね。彼女、定時以降、何やってるの?」
翔子はまだ着任して日が浅いため、メンバーたちが約束の期限通りに成果物を作っているのか、日々どの部分をコーディングしているのか、今どんなドキュメントを作っているのか細かくは把握していなかった。しかしみずきが、ほぼ毎晩、9時、10時まで作業をしていることは知っていた。
「そりゃ、プログラミングしてりゃ、時間のたつのはあっという間ですし……」
「でも、今はまだそこまでタイトなスケジュールではないでしょ?」
サンリーブスは、イツワ銀行の勘定系システム開発プロジェクトの主に画面周りとAIチャットbotを受け持っているが、両方とも、これからの本格的な開発を前にモックを作成し、イツワの行員たちに確認してもらっているところだ。モックに対する要望が返ってくるまでの数週間、サンリーブスは「忙中閑あり」のはずだ。
「まあ、よそを手伝ったりもしてますしね」
「よそ?」
翔子の視線が突き刺さり、野口はカレーを食べる手を止めて、翔子を見返した。
「あれ? 主任、知りませんでした? 彼女、お客さんや他のベンダーに頼まれて、いろいろ手伝ってるんですよ。昨日はたしか、貸付サブシステムの開発をやってる『東通』に頼まれて、テストデータを作ってたんじゃないかな? おとといは、イツワの行員に頼まれて上司に報告する資料の作成をやってたんじゃなかったかな。彼女、パワーポイント職人だから」
翔子の目が大きく見開かれた。
「何よ、それ! 契約外の作業じゃない。ウチの社員がよそに勝手に使われてるってこと?」
「勝手にっていうか、まあいろいろ……」
野口は再びフォークを手に取ると、右端のカツからペース良く食べ始めた。
「最初のころは、イツワさんがPCの操作についてちょっと聞きに来る程度だったんですよ。それがだんだん、Excelの簡単なツールを作ってあげたり、古いシステムからSQLをたたいてデータを引っ張り出してあげたりするようになって。彼女、スキルは高いし愛想もいいから。そのうち、他のベンダーからもちょっとした用事を頼まれるようになって」
「そんな……そんなことを今までもやってたの? もしかして、アナタたちも?」
翔子の緊迫した声に、周囲で食事をするイツワの行員たちの視線が集まった。野口は、その視線を気にして声を落とした。
「そりゃあ、みんな多かれ少なかれやってますよ。ウチのメンバーはAIやRPA(ロボティックプロセスオートメーション)だけじゃなくいろんなツールやSaaSにも詳しいし。基本、みんな頼りにされてます。あと、ウチの請け負ってる画面やチャットbotの仕様検討というか、要件定義なんかにも参加させてもらったり……」
「あり得ない! ダメ、ダメよ、そんなの……。田原マネジャーはこのことを知ってるの?」
田原は翔子の上司で、一応のプロジェクト責任者だ。だが、他にも多くの案件を抱える彼は、イツワに常駐することはなく、週に一度やって来て翔子から簡単な報告を聞く程度の関わり方だった。
「もちろんご存じです。少し引っ掛かるところもあるようですが、お客さんが喜ぶなら仕方ないかって」
「喜ぶならって……しかも、他のベンダーも喜ばせてるのよね?」
翔子の眉がつり上がった。
「会社は『ウチみたいな新参のベンダーが伸びていくには、顧客の信頼と満足が一番大事だから、多少のことには目をつぶる』って考えみたいです。他社への協力だって、イツワからすればありがたいことでしょうし」
「便利に使い倒されてるだけじゃない。そんなの、間違ってる」
「まあ、そんなのどこでもやってることじゃないですか。ここだって、複数のベンダーが皆いろいろやってますよ。お客さんを手伝ったり、他のベンダー手伝ったり。それで結構うまくいってたりするんです」
「うまくって……おかしいものはおかしいでしょ。会社はみんなに残業代を払ってるんだし、何かあったときに責任を取れないじゃない」
「何かって?」
野口が首を傾げた。
「今すぐには思い付かないけれど、とにかく“何か”は“何か”よ」
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