翔子は9月9日の夜にイツワのプロジェクトルームでサンリーブスのメンバーと交わした会話を、苦々しく思い出していた。毎週末行っている作業状況報告書の提出時のことだ。
「あの、今週の作業報告、来週に回しちゃダメですか?」
サブリーダーの野口が声を掛けてきた。
「どうして?」と言いながら、翔子は野口をじっと見た。首にはじっとりと汗がにじみ、ワイシャツの襟が汚れている。目もどこかうつろに見える。
「それは構わないけれど。どうしたの野口さん、もしかして夕べ徹夜した?」
昨夜10時過ぎに翔子が会社を出たとき、野口はまだ作業していた。野口だけではない。西城も、桜田も、その他にも何人かが一心不乱にPCに向かっていたのを翔子は覚えていた。
「いや、ええ、まあ。でも、仮眠は取りましたから」
「進捗(しんちょく)を見る限り、あなたの画面開発はそんなに遅れてないはずだけど?」
PCには作業を5日単位まで細分化したWBS(Work Breakdown Structure:作業分解構成図)を表示している。野口が受け持つ作業に遅れはない。
「はい。でも、その……イツワさんから頼まれたことが……」
翔子は頭からすっと血が引くのを感じた。
「どういうこと!」
翔子の激しい声に全員の目が集まった。
「イツワさんに頼まれたって……。もう、本格開発が始まるのよ。いつまでそんなことをやってるの?」
「いや、その田中課長に頼まれた資料作りです。昼間は通常業務で無理だから夜に作業してたら、つい終電逃しちゃって……」
「私に隠れて、何をやってるの!」
翔子は右手のひらで、机をたたいて立ち上がった。フロアには他のベンダーやイツワのメンバーもいたが、彼らが驚いてこちらを見ることも気にはならなかった。
「ちょっと、みんな集合。夕べ定時後、おのおの何をやっていたのか報告して。今すぐ、順番に。西城、橋、堤、野村、それに桜田。全員、順番に」
サンリーブスのメンバーたちが一人ずつ、本来やるべき作業と依頼された別の作業を、ばつの悪そうな顔で語り始めた。
「私は、その……『東通』さんに頼まれて、コンテナアプリケーションの調べ物を……」
「僕は『TDC』さん、あの、普通預金業務を担当してる外注さんの……そこと一緒にHTML5の技術検証をやっていて、それを……」
自分が把握していない契約外作業の数々に翔子が目をクラクラさせていると、野口がおずおずと口を開いた。
「あの……主任」
「何?」
「例のモックへの要望が返ってきました」
技術面に関するユーザーからの連絡は野口を通すのが、翔子がここに来る前からの通例だった。
「ああ、どれくらいあった? 20とか30くらい?」
「それが……その、ざっと400ほど……」
翔子は言葉を失った。
「い、いえ、まだ、何とかなります」
なだめるように言う野口の言葉は、翔子の耳に入らなかった。
「とにかく、今後一切、本業以外の作業はやらないで。今、仕掛かってるものも全部断りましょう」
「でも、いまさら……」
桜田みずきがPCを眺めたまま、つぶやいた。
「言いたいことがあるなら、こっち向いて言いなさい!」
「だって、断れませんよう。みんな私たちを頼ってるしい。確かに作業はきつくなりましたけど、一通りの画面開発さえ乗り切れば、何とかあ……」
「数百件の改善要望が来てるのよ。そんな中他の手伝いだなんて、あり得ないわ!」
「でもお……」と、さらに何か言おうとするみずきを野口が制した。
「まあまあ。と、とにかく、われわれの作業もだいぶ厳しくなってきたし、少なくとも新しい依頼はもう受けないようにしようよ。そ、それでいいですよね、主任」
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