大学での最初の2年間、アルジュン氏はエンジニアリングの勉強に特別に時間を割くこともなく、淡々と日々を過ごしていた。ディベートや学内イベントに積極的に参加しながら、「自分は何をすべきか」を模索していたのである。そんな彼に大きな転機が訪れたのは、大学3年の時であった。米国の海軍基地で開催される学生大会「SUAS」のドローンプロジェクトに参加したのだ。
彼はそこで画像認識AI(人工知能)を担当し、初めて米国の地を踏む。その経験は彼の中にあった「インドでの停滞感」を決定的なものにした。
「米国での滞在は2〜3週間と短いものでしたが、『戻ってきたい』と強く思いました。インドにはなじめず、生活水準も下がっていたので、先進国への憧れが強かったんです。そこで留学を決意し、ウィチェスター工科大学(WorcesterPolytechnicInstitute)に進学しました」
彼が海を渡ったのは、単なる学歴のためではない。インド国内で感じていた、画一的なキャリアパスや生活水準の低下という閉塞(へいそく)感から抜け出し、より高いステージへ挑戦するための必然的な選択であった。
だが、留学先で彼が選んだ専攻は、当時全盛期を迎えつつあった「AI(ニューラルネットワーク)」ではなかった。彼は、あえて「ロボット工学」という、より泥臭く、しかし本質的な分野に身を投じる。そこには、技術の表面的な成果だけを追い求める現代の風潮に対する、彼なりの強烈な違和感があった。
「ニューラルネットワークも扱えましたが、退屈だったんです。データを入れてグラフがゼロになるのを待つだけで、『ペンキが乾くのを見ている』ようなものでした。ハック(小手先の技術)的で、システムの仕組みを理解していなくてもできてしまう。まるでエンジンの仕組みを知らないレースドライバーのようなものです。一方で、当時のロボット工学は分析的で、問題を理解することに重点を置いていました。AIエンジニアになればサンフランシスコで大金を稼げたかもしれませんが、ロボット工学の方が興味深かったのです」
ブラックボックス化したアルゴリズムに頼るのではなく、あくまで分析的に、問題の核心を理解したい。その探求心の矛先は、人型ロボットのような記号的な存在ではなく、社会のインフラを物理的に動かす「自動車」へと向けられる。
「産業用ロボットなどもありますが、私が扱っているのは『自動車(Automobiles)』です。ロボタクシー、ロボトラック、港湾の自動化などです」
こうして、インドでの閉塞感を飛び越えたアルジュン氏は、米国という巨大な実験場で、自らの情熱を「移動の自動化」という具体的な形へと昇華させていくこととなったのである。
ロボット工学の修士課程を終えたアルジュン氏は、米国の最先端を行く企業や研究所でキャリアを積み始める。その第一歩は、マサチューセッツ州ケンブリッジにある三菱電機研究所(MERL)での9カ月間にわたるインターンシップであった。そこは、現代の顔検出技術の礎となった「Viola-Jones法」を生み出した、伝説的な研究所である。
「顔検出技術生みの親のジョーンズさんが勤めていて、ランチをご一緒したりしました。この研究所は今でも多くの新しい技術を生み出していますよ」
その後、24歳でダイムラー傘下の「Torc Robotics」に入社。米国社会の深刻な課題であるトラック運転手不足を自動運転技術で解決するという、極めて社会的意義の高いプロジェクトに従事した。さらにその後、Amazon.com傘下の「Zoox(ズークス)」へと籍を移す。そこは、エンジニアにとって理想郷ともいえる環境であった。
「Zooxの活動は長期的な視野に立って行われていて、予算が無制限のような環境でした」
しかし、輝かしいキャリアの裏側で、アルジュン氏は「米国の闇」ともいえる過酷な現実に直面していた。それは、個人の能力や実績とは無関係に、尊厳を削り取るような硬直した移民システムであった。
「米国にいた6年半、一度も出国できませんでした。というのも移民をランダムに選んで、米国に本当に住んで仕事をしているかどうかをチェックする仕組みがあるからです。仕事はあります、生活も豊かです。でもストレスで不健康になり、髪の毛が抜けたこともあります。いまの米国は、その仕組みがさらに悪くなっているようです」
自由とチャンスの象徴とされる米国で、彼は6年半もの間、目に見えない檻(おり)の中に閉じ込められていた。最先端の技術を駆使し、潤沢な予算の中で世界を変えるコードを書きながらも、自らの身体は常に国家の監視下に置かれ、一歩も国外に出ることが許されない。その不条理なストレスは、彼の肉体をむしばむほどに深かったのである。
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