2020年度から小学生のプログラミング教育が始まる。官庁や教育機関、企業を巻き込んだ教材開発やデモ授業などが進む中、国立情報学研究所の新井紀子教授は、AIや全国の子どもを対象にした研究活動の成果から「プログラミング教育以前に、学校は子どもの『読解力』を伸ばすべき」と主張する。その理由とは。
こんな状況を想像してほしい。あなたは小学生の子どもを持つ親で、AIの導入やモノのデジタル化が進む将来を見据えている。そのため、自分の子どもには、 最新の環境で、優秀な講師によるプログラミングの授業を受けさせるつもりだ。20年後、あなたの子どもは、プログラミングを深く使いこなし、自分のアイデアをコンピュータで形にできる大人に育つだろうか?
2000年代初めからさまざまな年代の子どもにプログラミング教育を行ってきた、国立情報学研究所の新井紀子教授・社会共有知研究センター長によれば、運良くそうなれる子どもの割合は、1000人中、たったの3人だ。
新井氏は、2018年3月に開催された「第80回 情報処理学会 全国大会」の基調講演で、「現在、小学校教育を受ける日本人の子どもの大半は、プログラミング学習に必須の『定義』を理解するだけの読解力を持っていない。この状況で子どもたちにいくらプログラミングを教えたところで、AIが広く普及する将来、満足な収入を稼げるだけのスキルにはつながらないだろう」と語った。
こうした見解を抱くまで、新井氏は研究者としてeラーニングやアクティブラーニングに関わってきた。2011〜2016年には、AIに学習させて東大合格を目指したプロジェクト「ロボットは東大に入れるか(東ロボ)」を主導。「AIが将来の労働市場に与える影響を、日本の高校生とAIの能力を比較して科学的に測りたかった」と語る。新井氏は現在、調査研究の成果をまとめた論文を執筆中だ。
研究のきっかけは、2000年代初頭から子ども向けのプログラミング教育を実施するうちに湧いた疑問だった。優秀な教師や最先端のツールを活用し、学習意欲の高い子どもを集めて教えても、なぜ「1000人に3人」しか、自分のアイデアを形にできるレベルまでプログラミングを習得できないのか。
新井氏は、さまざまな数学者や企業、教育機関の協力を得て、全国の小中高校生や大学生数千人を対象に、プログラミングの基礎レベルに必須の「論理的な思考力」を測る試験「リーディングスキルテスト(RST)」を実施した。
その結果、問題文を正しく理解できていない傾向が浮かび上がった。例えば、下記図の問題において、「原点Oと点(1,1)を通る円がx軸と接している」という説明文の内容を正しく表した図を選択した中学3年生の割合は、4人に1人だったという。
また、新井氏がRSTとは別に行った試験で、「偶数と奇数を足すと、なぜ奇数になるのか説明せよ」という問題に正しく答えられた大学生の割合は、国立大学Sランクで7割。私立大学では4割を切った。
「偶数とは何か」といった定義の理解には、読解の基礎である「係り受け」「同義文判定」「イメージ同定」「推論」「具体例同定」などの能力が必要とされる。新井氏は、RSTの結果が、「小学校教育でこうした能力がうまく育っていない」点を科学的に証明したと考えている。
「意欲のある子どもがプログラミングを学ぶのは大変望ましいこと。ただし、初めから定義の内容が『読めない』子どもにプログラミングを教えても、意味がない」(新井氏)
AIの普及が進む今、「将来多くの業務が自動化され、労働市場に影響を与える」との懸念から、高い労働スキルを備えた人材を育てようと、プログラミング教育の必要性を挙げる声も多い。
新井氏は、「東ロボ」プロジェクトを率いた経験から「現在のAIは、人物名や地名などの知識を問う問題を与えられた際に情報検索を行う能力や計算能力に長けているが、細かい文章理解に必要な自然言語処理は苦手」と指摘する。
新井氏はむしろ「AIと同程度の読解力しか持たない」子どもが多い現状を懸念し、プログラミング教育以前に「中学校の教科書を読んで理解できるだけの」読解力や論理的な思考能力、再現性の高い論理的な表現力を学校教育で養う必要性を強調する。
「高い読解力を持つ子どもなら、プログラミング学習への意欲を持った時点で、ツールや参考書を使っていくらでも学べる。逆に、教科書を読んでも理解できない子どもは、自分1人では勉強できず、新たなスキルを自力で学ぶことも、新しい職種に転職することも困難になる。労働力不足の日本でこの現状を放置すれば、将来、失業や非正規雇用が増大し、経済的格差がさらに拡大するだろう。これは本当に由々しき事態だ」(新井氏)
一方、文部科学省は、2016年6月に公表した「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)」で、2020年4月から小学校で開始する「プログラミング教育」の方針を明らかにした。
ここで言う「プログラミング教育」とは、プログラミングの基礎となる「プログラミング的思考」力を養う学習を、小学校の「国語、算数、理科、社会など教科学習の授業時間の範囲内で」行い、「コンピュータに意図した処理を行うように指示する」行動としてのプログラミングを子どもたちに体験させておくもの。一般的に連想されるような、PCでコーディングを行う授業とは本質的に異なる。
「第80回 情報処理学会 全国大会」では、「子ども達に、いま必要なマナビ:プログラミング的思考や読解力の必要性と教育の在り方は? 〜データなどの確かな根拠に裏付けされた実態と展望〜」と題して、 早稲田大学の鷲崎弘宜教授を司会役に、新井氏と教育関係者、企業や学術機関の専門家との間で熱い討論が交わされた。
新学習指導要領の発表前から「社会体験の一環として、子どもをプログラミングに触れさせたい」と、小学校で独自のプログラミング授業を展開してきた千葉県柏市からは、柏市教育委員会の学校教育部 学校教育課 副参事である佐和伸明氏が討論に参加。ICT専門家の協力を仰ぎながらプログラミング授業を行う様子を紹介した。
「小学校では、あくまで、児童にプログラミング学習の入口である『出会い』の場を提供している。それ以上の学習に興味を持った児童には、クラブ活動を含む課外学習でよりレベルの高い学習の場を提供している」(佐和氏)
また、日本STEM教育学会のプログラミング教育研究会代表である後藤義雄氏は、既にツールを使ったプログラミング教育の実施を全国各地の小学校で進める立場から、現場の課題を話した。
「『プログラミング的思考』を伸ばすために具体的に何をすればいいのか、教育現場の理解が追い付かず、混乱が広がっている。既存の授業時間を削って、例えば45分間行われる算数の授業のうち20分間でプログラミング教育を実施しようとしても、実際には困難だ」(後藤氏)
こうした教育関係者の話に対し、新井氏は「時間の制約が課題となる原因は、そもそもハードウェアやソフトウェアなどを使った授業にこだわるからで、本来そうした特定のツールは必要ない」と指摘。「『方眼紙に全てのマス目を通ってつながった線を書きなさい』という仕様に沿って紙に線を書き、隣の子と見せ合って正しいか確認するといった内容でも十分プログラミング的思考の授業になる」と例を示す場面もあった。
実際に教育現場で子どもたちを教える側にとって、もう1つのプログラミング教育の課題は「プログラミング教育の成果が出たかどうか、どうやって確認するか」の方法論の確立だ。
佐和氏は、授業内容に関する新井氏の指摘を受け、「(確かにプログラミング的思考教育は重要だが)PCなどで実際にプログラミングすることは、学んだプログラミング的思考がうまく機能しているか『可視化』する手段になる。そういう意味で、実際のプログラミングを授業で行う価値はあるのでは」と語った。
早稲田大学 教育学部 助手として、全国各地でプログラミング教育を行う斉藤大輔氏は、「『実際にプログラミングを行うプログラミング教育』と『プログラミング的思考教育』とをきっちりと定義分けした上で、授業と評価を実施すべきだ。今後、プログラミング教育が成果を上げたかどうかを証明するためには、統一的かつ体系的な評価制度を積み上げ、授業前と授業後に能力測定を行うなど、データ量を確保することが重要だ」と指摘した。
新井氏は、「プログラミング的思考の能力を測定するには、科学的に信頼性が高く、かつ大規模なテストを実施する必要がある。そうした用途にRSTを使いたい教育関係者は、国立情報学研究所に連絡してほしい」と話し、今後もデータを収集する必要性に同意した。
現在の小学校におけるプログラミング教育に関する議論は、どのような教材を使い、どのように教科学習に組み入れるか、教員の限られたリソースをプログラミング教育にどこまで費やせるのかといった課題に対するものが多かったが、今回の討論で課題として挙がった「能力測定」は、AI活用が広まることが予想される今後、さらに注目すべきポイントではないだろうか。2020年度の新指導要綱の導入開始まであと2年足らず。これまでの特集は教材や現場の教員の取り組みについての記事が多かったが、編集部としては、これからは今回のイベントに登壇したような研究者たちの取り組みにも注目していきたい。
政府の成長戦略の中で小学校の「プログラミング教育」を必修化し2020年度に開始することが発表され、さまざまな議論を生んでいる。そもそも「プログラミング」とは何か、小学生に「プログラミング教育」を必修化する意味はあるのか、「プログラミング的思考」とは何なのか、親はどのように準備しておけばいいのか、小学生の教員は各教科にどのように取り入れればいいのか――本特集では、有識者へのインタビューなどで、これらの疑問を解きほぐしていく。
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