つかみどころのない「幸福度指数」をなんとか定量的に計測できないか。そして、それを職場の幸福度向上に生かせないかというプロジェクトがある。日立製作所フェロー・理事、IEEE Fellow、東京工業大学大学院情報理工学院特定教授の矢野和男氏に聞いた。
幸福を感じている人の方が、そうではない人よりも生産性が高く、行動的で健康であり、友好的で、なおかつ創造的になるという心理学の研究結果がある。これは、「ポジティブ心理学」という分野に属する考え方なのだが、一聴すると「ポジティブなんちゃら」や「マインドなんちゃら」といった言葉を連想し、うさんくささを感じる向きもあろう。だが、誤解するなかれ、学会で実証された、至って真面目で実践的な話なのだ。
最近は、この考え方を企業経営に取り入れ、CHO(チーフ・ハピネス・オフィサー)なる、幸福度向上を専門的に追求する役職を設ける企業が登場しているという。実際、研究や調査の中で、幸福度の高い組織は、そうではない組織と比較して、生産性で30%、セールスで37%、クリエイティビティーでは300%の向上が認められるという結果も出ている(出典:『Harvard Business Review』誌2012年1月-2月号『The Value of Happiness』特集記事「How Employee Well-Being Drives Profits」から)。
そんなに良い結果が得られるのであれば、あらゆる組織がどんどん取り入れるべきだと思うのだが、ことはそう単純ではないようだ。そもそも、「幸福度」などという極めて定性的な指数をどのようにして測るのか? 何らかの数字的な裏付けがないと、組織としても取り組みづらいであろう。
そんな、つかみどころのない幸福度指数をなんとか定量的に計測できないか。そして、それを職場の幸福度向上に生かせないかというプロジェクトがある。日立製作所のウエアラブル技術利用に関する一連の取り組みや、スマートフォンを利用した「Happiness Planet」がそうだ。これら取り組みは、ウエアラブルの加速度センサーを利用し、人の動きを記録することで、幸福度の定量化と向上を実現できないかという試みである。
日立製作所では、10年近い年月を費やし、20ミリ秒単位という微細な動きを検知するウエアラブル端末の内蔵センサーを利用し、身体運動と「幸福感」との間に強く相関する特徴的なパターンを発見した。
身体運動パターンの特徴や取得したデータの分析方法、そして幸福感とひも付け方法の詳細は、日立製作所が公開している「ウエアラブル技術による幸福感の計測(PDF)」に詳しい。要約すると、こうだ。7社、10組織、468人、延べ約5000人日、約50億点の加速度データを収集した上で、従業員への質問紙(米国国立精神保健研究所が開発したCES-D方式アンケート)によるハピネス値と加速度データとの関係を分析したという。その結果、「身体運動〜幸福感〜生産性」という三位一体の関係が明らかになった。
日立製作所の矢野和男氏は、「人間の無意識下で起きる、動いたり止まったりの微細な動きを記録したデータには真実が含まれている」と自信たっぷりに言い切る。データはうそをつかない、ということか。次の図は、矢野氏の12年間に渡る50ミリ秒ごとの動きのデータを可視化したものだ。日立製作所では「ライフタペストリ」と呼んでいる。なかなかしゃれた名前だ。
活動量の多寡に応じて5段階に色分けされたドットが縦軸12カ月、横軸24時間にプロットしてある。全体を俯瞰すると、睡眠、出勤、デスクワーク、昼休み、退勤といった比較的規則正しいパターンが現れており、いうなれば、会社人間の人生が織り込まれているわけだ。ちなみに、ときどき、昼夜が逆転したデータが記録されているが、これは海外出張の結果。
次の図は、職種の異なる4人のライフタペストリを並べたもの。当然ながら、職種によって活動の量やパターンは異なる。ただし、活動量の多寡がそのまま幸福度に影響するわけではない。矢野氏のコメントにもあるように、加速度データが無意識下の隠れた身体運動の特徴を拾い出し、質問紙に基づいた幸福感との相関関係を見いだしているからだ。
日立製作所が実施した、とあるコールセンターでの実証実験の例がある。休憩時間中においてパートの従業員同士の雑談が弾むと、コールセンター全体の幸福度が上昇し、驚くことに、受注率が30%も増加するというのだ。
さらに注目すべき点もある。雑談の多さには個人差があるが、雑談が弾んだ人だけが良い成績だったのではなく、雑談により集団全体の幸福度が上がり、コールセンター全体の受注率が向上したという。電話でセールスを行う業務は、一見すると個人プレーに思えるが、休憩中の雑談といったコミュニケーションにより、メンバー個々の幸福感がお互いに共鳴し合うことで、集団の幸福度を高めるということだろうか。その結果として全員の業務能力が向上したと考えられる。
さらに、業務中の現場監督の声掛けと雑談の弾み具合との間にも相関関係が生じていた。監督が従業員と適切なコミュニケーションを行うと、雑談が弾むというのだ。この結果を受け、監督が声掛けを積極的に実施したところ、コールセンターの受注率を継続的に20%以上向上させることに成功したそうだ。
筆者としては、休憩中の「雑談」という微細な体の動きを識別するセンサーの性能とそれを拾い出す分析手法に驚く。それと同時に、「雑談が弾むとその結果としてなぜ受注が増えるのか」という「理由」を知りたい衝動に駆られる。
だが、矢野氏は「この場合、ナゼは考える必要なし」と言い切る。重要なのは、「雑談が弾むと業績が上がる」という事実にだけ着目すれば良く「その理由探求にコストを割く必要はない。雑談が弾むような施策を考え、そこにコストをかけることが大切」だという。
つまり、「なぜそうなるのか」という部分はブラックボックスのままで良いというのだ。なんだか、最近議論が活発な深層学習のブラックボックス化を連想する流れではある。
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