私はこの判決文を最初に読んだとき、どちらかといえば後者に近い感想を持った。
被告Yのやり方は、仁義や常識の問題としては引っ掛かる部分はあるものの、一緒に退職した従業員も含めて転職は自由だし、取引先から見ても、それまで案件に携わってくれた人間が作業を継続してくれた方が安心だろう。
契約は、誰と結ぶのも、途中で解除するのも自由である。原告企業Xは大変苦しいかもしれないが、それは自らの従業員の満足度と取引先との関係の維持に関する努力が足りなかったのだから仕方がない。そんな思いを抱いた。
ただ、被告Yのやり方が法に触れる可能性が全くないかといえば、場合によっては不法行為とも成り得る。民法第一条2項には「権利の行使および義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない」とある。これは一般に「信義誠実の原則(信義則)」と呼ばれるものだ。
本件でいえば、「転職をしたり、取引先を獲得する活動を行ったりする権利の行使も、雇用契約に基づいて働く義務も、全ては社会通念に照らして誠実に行われなければならない」と解釈できる。被告Yの一連の行動は、社会通念に照らして信義に従い誠実なものだっただろうか。違うのなら、原告企業Xが主張するように、被告Yの行動は不法行為ということになるのだが。
さて判決はどうだったろうか。
被告Yの退職に当たり、(原告企業Xの)東京支店における取引(中略)(を)会社aが当該取引の大部分を引き継ぐ結果となったことが、社会通念上自由競争の範囲を逸脱するものであったと評価することはできず、また、被告Yを含む東京支店の従業員が全て同時期に原告企業Xを退職し、会社aに入社したことに関して、これらが被告によって原告に対する関係で著しく背信的な方法で行われ、社会的相当性を逸脱するものであったと認めることもできない。
裁判所は、被告Yの行動を債務不履行とも不法行為ともしなかった。
会社は、社員の引き抜きも取引の移転もリスクとして管理、対応しなければならない。
社員の会社に対する不満や問題意識に耳を傾けて、対応を検討する。顧客との関係においても、信頼の獲得と一部の社員への任せきりを防ぐなどのケアは必要だ。雇用契約で対応する条項を検討することも必要だろう。
これらは会社を経営する側には大変に大切な必須事項だが、特に小規模なベンチャー企業においてはなおざりにされる傾向が強いように思われる。
いま、会社を経営している方、これから独立起業を考える方には、この辺りのケアをぜひ怠りなく行っていただきたい。ベンチャーによるイノベーションが社会発展のために不可欠とされる現代日本の社会において、ケアを怠ることで有望な会社が消えるのはあまりに惜しい。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.