バブルの絶頂の1980年代、日本の半導体メーカーも絶頂期だった。バブル経済崩壊とともに、日本の半導体メーカーも衰退していく。その影で、台湾でTSMCが設立され、隆盛を極めてきた。なぜ、あれほど強かった日本の半導体メーカーが、現在のTSMCの地位を築けなかったのか、この間、何が起きたか、過去30年を振り返ってみた。
日経平均が最高値を更新したのは記憶に新しい。「前回」の最高値は1989年であり、日本はバブルの絶頂にあったわけだ。そして、当時の日本半導体もまた絶頂期であり、いまでは信じられないかもしれないが、世界の半導体市場の約半分を日本勢が押さえているような時代だった。ただ絶頂にいるときには、そこが絶頂だとは気付かない。1990年代に始まるバブル崩壊と失われたうん十年と時を同じくして、日本の半導体も凋落(ちょうらく)を重ねた。
それ以来、30数年ぶり、株価の最高値が更新されるとともに、長い停滞と凋落を経て日本の半導体にも曙光が差し始めているようだ。頭脳放談「第285回 日本中で半導体工場建設中、そのヒト、モノ、カネについて考える」で書いた「TSMC(台湾積体電路製造)」の日本子会社の開所が、日経平均の高値更新と同時期だったのには何か因縁を感じる。1987年と聞くTSMCの設立は、まさに日本のバブル興隆期の裏側で起こっている。
その後、1990年代のTSMCが勃興する時代は、日本半導体の凋落の時代とクロスしている。そして、いまバブル当時にシリコンアイランドといわれるほど、半導体製造拠点が集積していた日本の九州に、半導体の大きな製造拠点が戻ってくる。TSMC子会社として。
「うざい」と感じるかもしれないが、年寄りの記憶を書かせていただきたい。1980年代中盤にさかのぼる。時はTSMCの設立以前である。
当時、米国企業に勤務していた筆者は、米国へ行くと非常に多数の台湾人が活躍していることにちょっとびっくりした。特に筆者のように設計部門にいると設計部門の7、8割は外国出身者であり、その中でもメジャーなグループが台湾系だった。それは、半導体製造部門においても同じだったようだ。
一方、ネイティブな米国人が幅を利かせていたのはセールスやマーケティング、管理部門だったように記憶している。筆者の部署のマネジャーも台湾人だった。
設計部門のマネジャークラスに台湾人が多かったが、彼らは1970年代くらいに米国に留学に来て、半導体や電子工学を学んだ人々のようだった。どうもそのルーツは、第2次大戦後に大陸から台湾や香港などに逃げ出した人々、そしてその子弟の中のエリート層にあったようだ。そして、1990年代中盤には米国の半導体業界で台湾系の人々は幅を利かせるようになっていたのだ。
そんな時代、IBM互換PCのブームが起こる。PC業界では後発だったIBMは全回路図公開という思い切った手を打った。IBMはシェアを得たが、自らライバルをも育てることになったわけだ。
1980年代中盤以降、米国ではIBM互換のPCメーカーが次々に登場し、見る見るうちに大きくなっていった。その中でプリント基板を中心とするPC部品の供給基地として台湾が浮上してくる。
プラスチック部品などの製造に端を発するらしい「鴻海精密工業(フォックスコン)」などが、台頭してくる。鴻海精密工業といってもピンとこない人がいるかもしれないが、iPhoneを実際に製造している会社といえば誰にでも分かってもらえるだろう。いまや世界最大のEMS(電子機器受託製造)企業だ。企画、開発、販売は米国の会社のブランドでも、実際の製造は台湾という水平分業はこの時代に端を発しているように思う。
PCブームに乗って、1980年代のシリコンバレーでは、ファブレスの半導体会社の設立が相次いだ。PC向けのチップセットやグラフィックスチップ(その流れの先にいまや花形のGPUも位置している)を設計販売する会社が200社以上もできたらしい。まさに雨後の何とか状態である。
台湾出身のマネジャー層(多分、1970年代から80年代前半くらいの米国留学組)が勤めていた会社をスピンアウトして設立した会社も多かった。また自らファウンダー(創業者)にならずとも、ほぼ全ての会社に台湾系の人々が在籍していたように思う。
一方で、米国から台湾へ戻る人々もいたようだ。こちらには、米国でベンチャー企業を設立しまくっていた層よりは、もっと以前に米国に渡って既に経営層になっていた人々が混じっていたようだ。台湾政府の政策がよかったのだろう、TSMCに代表される半導体製造に関わる企業の設立が、新竹工業団地を中心に相次いでいく。
この台湾での半導体製造業の発展は、最初から水平分業指向だったと思う。前工程、後工程、テスト工程など、みんなそれぞれ独立した会社なのだ(中には設計会社もあったが)。その中心には米国帰りの人々がいた。
ちょっと時代が下がるが、1990年代に台湾の半導体設計企業と付き合っていたことがある。多いときは月3回も台湾出張に行っていた。そのとき台湾の会社の担当者が、毎月のように発注先を変えるのでビックリしたのを覚えている。費用がより安い会社にさっさと変更してしまうのだ。
「4M変更(Man、Machine、Material、Methodの4つの要素を分析、改善していくこと)」という言葉に代表されるように、工程を変えるのには非常に手間のかかる日本企業とは発想が違う。日本流とはいろいろ軋轢(あつれき)があった記憶がある。さすがに前工程はそう簡単に載せ替えできないが、それでも「安くて早い」方に乗り換えるのはアリなのだ。そういうスピード感で台湾の半導体産業は、1990年代に勃興していく。
何せ製造する製品には困らない。つぶれたり、合併したり、また新たにスピンアウトしたりと紆余曲折は度々だったとはいえ、米国にはファブレスの半導体企業多数があり、製造委託先を求めているのだ。そしてそれら企業の経営層やマネジャー層には多数の台湾系の人々がいた。個々の取引内容には立ち入らなくても、話が早くて対応のスピードが速いのが一番だ。
振り返ってみれば、1990年代の中盤くらいまでは日本製造にも目がないわけじゃなかった。初期の米国ファブレスメーカーの多くが、日本の半導体企業のゲートアレイに代表されるASIC(Application Specific Integrated Circuit)サービスを利用していたからだ。「バブルは崩壊した」とはいえ、まだ日本メーカーの製造能力は大きかった。
しかし、日本でもファウンドリビジネスは存在したものの、当時は主流にはならなかった。垂直統合のドグマに縛られていたといってもよい。だいたい1980年代の日米半導体摩擦の結果を端的に言えば「CPUは米国、メモリは日本」という製品すみ分けであり、水平分業の発想はなかったのだ。
1990年代から日本の半導体メーカーは、設備投資に後れを取っていく。最先端の半導体プロセスを製造する工場設備の費用は世代を重ねるたびに指数関数的に増えていった。そして半導体の需給は波が荒く、もうかったと思ったら、奈落の底という事態もまれではない。
総合的な電機メーカーの一部門であることが多かった日本半導体の場合、そんなリスクの大きい投資に手が伸びず、結局、遅過ぎて小さ過ぎる投資を繰り返し、リスクの大きな半導体事業の分割、再編などに進んでいくことになるのだ。そこでバブルの後始末同様、失われたうん十年を費やすことになる。
TSCMはいつも他社より早く、他社を驚かすような巨額の投資に打って出た印象である。ファウンドリ業界で勝ち切るには、常に一番になって先行者利益の総取りを狙わなければダメなのだ。
チキンレースと化した半導体の投資競争に勝つというのは非常な決意が要るもののようだ。大ばくちの連続である。結果を見てみれば、日米欧の垂直統合の半導体メーカーの多くが、競争についていくことを諦め、先端製品の製造を外部委託する方向に舵を切り続けることになった数十年だった。そしてその先はいつもTSMCといっても過言でない。
蛇足ながら、垂直統合の半導体メーカーにして唯一TSMCと張り合えていたのが韓国勢、特に「Samsung Electronics」だと思う。自社内に完成品部門あり、そこで使う社内消費の半導体を製造し、また外販もする。外販する半導体の主力にはメモリ製品がある。
そして、半導体工場キャパシティーの一部を使ってファウンドリビジネスも行う。こうしてみるとかつての日本半導体と非常によく似た構造になっている。ただ、体制は似ていても日本にできず韓国にできた理由があるだろう。
これは、韓国がオーナー経営者一人の決断で巨額投資を決断できる体制だからだと思っている。日本で社内調整などを繰り返して時間を使っているうちに、トゥーレイト、トゥーリトルな決断をするのと違って、経営者一人の判断で大勝負に出られたからだろう。
また、経営者が一度判断すれば、配下のみんなが一斉に同じ方を向いてひた走るのでスピードは速いのだ。ただし、競争激しく、内部での足の引っ張り合いも多い印象がある。カリスマがいれば機能するが、時代は変わりつつあるようだ。この先はどうなるか。
いまでも台湾は、TSMCの製造の大拠点だが、いまやTSMCは米国、欧州、そして日本にまで拠点を広げることになった。TSMCは中国にも拠点を持っているが、この先は積極投資をせず現状維持だろう。半導体工場は20年から30年くらいで寿命だ。しばらく維持した先に新規投資がなければ消えていくことになる。台湾、米国、欧州、日本の製造を一手に(といっては他のファウンドリが怒るだろうが)引き受ける観のTSMCのこの先はどこへ続くのか。まぁ30年前にいまの状況を見通せてないので分からないけど。
日本では数少ないx86プロセッサのアーキテクト。某米国半導体メーカーで8bitと16bitの、日本のベンチャー企業でx86互換プロセッサの設計に従事する。その後、出版社の半導体事業部などを経て、現在は某半導体メーカーでヘテロジニアス マルチコアプロセッサを中心とした開発を行っている。
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