それは権力による創造の抑圧だったのか――元IPAセキュリティセンター長、セキュリティ研究者、ユーザー、セキュリティエンジニア、「One Point Wall」開発者たちが、さまざまな立場からWinny事件が残した影響を振り返った。
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「Winny」――年代によって、またソフトウェア開発者か、ネットワーク管理者やISP(インターネットサービスプロバイダー)か、それともユーザーかといった立場によって、このソフトウェア名から引き起こされる記憶はまちまちだろう。若手のエンジニアならば、言葉でしか知らないかもしれない。
このP2P(ピアツーピア)型ファイル共有ソフトが「47氏」こと金子勇氏によって開発されたのは2002年のことだった。ブロードバンド接続環境の普及と相まって利用者が増えたが、このP2Pネットワークを介して情報を流出させるウイルスも拡散し、多くの人がその巻き添えとなった。
金子氏は2004年「著作権法違反ほう助」の疑いで逮捕されたが、ソフトウェア開発者の罪を問うのが妥当かと議論が巻き起こり、大阪高裁では無罪判決が下った。2011年12月に最高裁で検察の上告が棄却されて金子氏の無罪が確定したが、2013年7月に同氏は死去してしまった。
この一連のいきさつを題材にした映画『Winny』が公開されたことを機に、日本ハッカー協会が「Winnyとは何だったのか v2.0b7.1」と題するセミナーを開催。さまざまな立場からWinnyに携わったスピーカーが当時を振り返った。
1989年生まれでインターネット普及期に高校時代を過ごした「さのし氏」は、「Winnyが残してくれたもの」と題し、どちらかというと一般的なユーザーの視点で当時を振り返った。
同氏が学生のころは、自宅でインターネットを利用し、PCを使えたり、ちょっと詳しい兄がいたりする人たちが、トレンドの音楽CDを作成してくれる「職人」と見なされていた。友人の中には、「ソフトウェアを有償でダウンロードして使うなんてあり得ない」という空気もあったという。
当時はCabosやLimewireといったソフトウェアも使われていた。そんな中でWinnyは、同氏の周辺ではちょっと危ない「ウイルスのソフト」と呼ばれていたものの、「ISP規制情報」などのWebサイトにお世話になる利用者も多い時代だった(※)。
さのし氏は今振り返ってみて、Winnyは「個人で開発したものが社会に大きな影響を与えていく一つの例」だと捉えているという。
当時はシェアウェア、フリーウェアといった形で個人がソフトウェアを開発し、提供する例が広く見られた。中にはTeraTermやさくらエディタのように、業務でも広く活用されているソフトウェアもある。
それを踏まえ、さのし氏は、「技術がどれだけ素晴らしくても、ユーザー次第というところがあるため、ソフトウェア開発をなりわいにする際にはユーザーを意識しなければならないという責任が重い時代になったなと感じます」と述べた。
2番手の「Aki@めもおきば氏」は、バージョンアップの履歴を振り返りながら、Winnyのネットワークアーキテクチャについて考察した。
Winnyはしばしば「P2Pソフトウェア」と呼ばれるが、そのP2Pにも幾つか種類がある。通信先の探索とデータの転送、どちらもP2Pのネットワークを介して行う「ピュアP2P」と、ファイル検索の部分はクライアント・サーバ型で処理し、データ転送をダイレクトに行う「ハイブリッドP2P」だ。当時はPCの性能もインターネットの帯域も限られていたこともあって、まずハイブリッドP2Pから普及が始まり、NapsterやWinMX、BitTorrentといったツールが使われていた。
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