2017年夏――。
「ち、ちょっと待ってください。今日になって、いきなり契約見送りってどういうことですか!」
日高の大声は北上エージェンシーの応接室に響き渡ったが、正面に座る生駒は無言のままだった。
「先々週お会いしたときは、契約はもう時間の問題で後は形式的な稟議だけだと……来週には契約できると仰っていたじゃないですか。それがなぜ?……なぜなんだ、生駒さん!」
日高に促されて生駒がようやく口を開いた。
「いろいろと事情が変わりましてね」
生駒の口調は、興奮している日高とは対照的に冷静なものだった。
「御社にはいろいろとご努力を頂いて申し訳ないのですが、上の決定したことでしてね」
生駒の様子に悪びれたところは全くない。
「そ、そんな……じゃ、じゃあ、これまで開発に掛かった費用は……ウチは、御社の広告自動作成システムに既に20人月以上かけているんですよ! それはどうなるんですか?」
「それは、あくまで御社の営業活動という認識です。何せ、御社とは契約書を取り交わしていないどころか、発注書の1枚だって出していない。われわれに『債務』……つまり、費用をお支払いする『理由』はないように思うんですがね」
「そんなバカな!!!」
ユーザー企業と正式な契約を結ぶ前にベンダーが作業に着手してしまうケースが時々あります。「実質的には発注を受けているとみなせるから大丈夫だろう」「納期が迫っているから時間のかかる正式契約は後回し」など、理由はさまざまですが、その後商談が白紙になり、ベンダーがそれまでに掛かった開発費用を回収できないという事件も起きています。
昨今は「正式契約前の作業を絶対に許可しない」と規定するベンダーが増えました。先行作業は危険であり避けるべきですが、受注を取りたい気持ちが先行してか契約前作業を行ってしまうベンダーもまだまだあるようです。お客さまであるユーザーからの依頼やプロジェクトの都合で先行作業を行わなければならないとき、ベンダーはどんな対応ができるでしょうか。
このお話では、今後クローズアップされるであろう「AI開発の成果物の権利」についても触れていきます。
AI開発は、人間の問いに対してコンピュータが妥当な回答を行うためにさまざまなデータを覚えこませ、そのどこに着目し、どのように分析するのかを学習させなければなりません。そうした「学習ノウハウ」は、設計書やプログラム以上に貴重な資産であり、ユーザーとベンダーが協力して守り、また、その権利関係を明確にする必要があります。
皆さんも是非、ご自身の会社だったらどうするのか、考えながら読んでください。(細川義洋)
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